プレミアムエイジ 10大事件


1959年 皇太子ご成婚

1959年(昭和34年)、現天皇陛下が「皇太子として初めて民間から妃殿下を娶られる」という事で大騒ぎになった。 テレビの普及が一気に高まり、我が家でも「極めて無理」をして、その日の直前に、14インチのテレビが届いた事から、 お二人の晴れがましい姿が長く目に焼き付けられた。近所では極めて早いテレビの購入で、プロレス中継は、 自宅が近くの人たちの劇場に変貌するような時代である。子供心にも、そんな見栄を張る親父が嫌だった。 結果として、早熟テレビ型少年が生まれる事になった。

写真提供=共同通信社

1960年 60年安保

1960年(昭和35年、いわゆる「60年安保」の年、何故か樺美智子さんの死亡だけは印象に残り、安保反対の臭いを引っ張っていく) 越境入学を見送り、校区であるM中学へ入学した。校舎は「夏暖房、冬冷房」の新築プレハブ平屋建て、クラスは55人の18クラス。 まさに団塊世代を象徴する環境が整っていた。
小学校越境組みの数人を引き連れて、「K小学校の番長」は、先頭を切って入学式に臨んだのだが、その日のうちに、 小さくたむろしている我々のところに数人が乱入し、いわゆる「カツアゲ」という儀式に無抵抗であった。
自分の中にあった、腕力による存在感は、入学式当日で完全に崩壊し、桁違いに「力づくの学校」である事は理解出来た。

写真提供=共同通信社

1963年 ケネディ暗殺

1963年(昭和38年)、ケネデイ暗殺事件の生々しい映像を、テレビの宇宙中継で見たのが、テレビ「ニュース」との出会いであった。
「プロ野球選手への夢」が、如何に遠いかを現実感の中で捉えつつ、なんとなく考え始めた将来の仕事が新聞記者であったのは、 この事件がきっかけであった。それまでのテレビ番組で大好きだったのが、NHKの連続ドラマ「事件記者」であった事にリアリティを与えられ、 アメリカを至近距離で感じ出してもいた。その年に、受験勉強もしないまま、兵庫県立Y高校へ入学する。

1964年 東京オリンピック

1964年(昭和39年)、東京オリンピックの年であったが、その白熱した世界の戦いと「東洋の魔女」と言われた 日本バレーの活躍の時が、皮肉にも秋の修学旅行とぶつかっていた。修学旅行の途中、街頭テレビで見た「東洋の魔女」が 金メダルを取ったシーンを思い出すが、一方で、見ていた映像が美人揃い(?)の魔女の中で、 無理矢理見つけた好みの顔が「宮本」という選手であったと記憶している。
要は、スポーツの中にも「性への興味」が優先して混入していた頃であった。

写真提供=共同通信社

1966年 ビートルズ来日

1966年(昭和41年)、高校生活が終わろうとするころに、団塊文化を創造したと言っても過言ではない永遠の大アーチスト「ビートルズ」が来日した。 関西からも沢山の高校生が、周囲の反対を押し切って日本武道館へ駆けつけるほどだったが、彼らの偉大な音楽性に気づくのはしばらく後の事となる。
受験戦争の辛さの最中、唯一心を和ませてくれたものは、音楽よりも高倉健の「ヤクザ映画」であった。 健さんのリアリティ迫る演技は「日本人」の持つ「義理と人情」の素晴らしさを表現していたし、その後の生き方にも少なからず影響を及ぼした筈であるが、 実は一方で、現実の「本物のヤクザ」というものの厳しさとのギャップも感じながらの鑑賞でもあった。 日本の底辺から生み出されてくる、言わば生きる為の「やむなし稼業」として、その道に進んでしまった過去の友人達との対比的な映画鑑賞の視点は、 言われるところの娯楽映画では決してなかった。これはやはり育った環境のせいなのであろうか。

写真提供=共同通信社

1969年 東大安田講堂事件

1969年(昭和44年)、70年安保改定阻止に向けて、学生運動は大きな転換期を迎えていた。 ほとんどの大学は機能麻痺状態となり、象徴としての「東大安田講堂事件」が、全国で同時発生的に展開されて行った。
我が大学もそれなりに過激であった。今思えば、1970年を前に、完全に学生運動の鎮圧に乗り出した大きな国家権力の前に、 一般学生を巻き込んだ大衆運動の限界が来ていた。安田講堂事件のその日に、我が校にも機動隊がロックアウト解除に入ることが知らされ、 プロの活動家(もちろんプロではなく純粋な革命思想家の意)と、心情左派的一般学生(当時その層は全体の70%程度ではなかったか)によって、 機動隊乱入阻止の戦いが始まる。徹夜で座り込む2000人程度の一般学生と、徹底抗戦の準備のため、コンクリートなどを持ち込んで籠城を準備する活動家。
自分にとっても「人生最大の決断」を要する時であった。

写真提供=共同通信社

1970年 よど号ハイジャック事件

そして4月1日の朝、東京駅内の温泉で疲れを癒した後、新聞に目を通していてあの大事件を目にしたのである。 いわゆる「日航よど号ハイジャック事件」。事もあろうに、そのメンバーの一人A君は、高校の同級生で、ラグビー部のキャプテンを務めていた人物である。 高校時代以降、接点はなかったが、文武両道に優れ、理想の高校生として、むしろ羨望のまなざしで彼を見つめていた。 一方は、社会への抵抗心を多少でもごまかすために深夜バスを利用して就職、一方は全てを捨てて北朝鮮へ。 この落差を埋めるためには、また長い時間を要することになる。

写真提供=共同通信社

1970年 三島由紀夫割腹自殺

70年安保反対の声は完全にかき消され、日本初の万博は大成功、そしてクライマックスとして「三島由紀夫割腹自殺事件」で、 当時の世論は完全に機能麻痺の状況となった。この年、政治的に左右両派が逆転していった分岐点であったと思われる。
右側は三島由紀夫を単独で死なせ、左側はテロと自己批判を容認する極左勢力として、見捨てられていったのだ。 そして自らも、時を同じくして、リスタートをする道を選んだ。三島事件は「何が正しいか」を見失うほどのショックを与えていた。

写真提供=共同通信社

1995年 阪神淡路大震災

平成6年、阪神淡路大震災が起こった時、既に名古屋で単身赴任をスタートしていたのだが、 その日は偶然にも3連休を利用して、全国の仲間の12名での「グアムゴルフツアー」から帰り、成田に着いた早朝の出来事であった。
空港にあったテレビの前が騒がしい。「神戸で大地震があり相当の被害が出ているらしい。ツアー参加者の中には神戸出身の仲間もいるし心配だ。」 それくらいの思いでそれぞれが、勤務地に戻ったのだが、東京の自宅に着いて折り返し名古屋に向かうつもりが、テレビに釘付けになってしまった。

写真提供=共同通信社

2001年 ニューヨークテロ

2001年(平成12年)神奈川に着任して6ヶ月目であった。あの忌まわしいニューヨークでのテロ事件が勃発した。
もちろん事故の悲惨さは筆舌に尽くせないものがあるのだが、実はD社側の社員のうち何人かは全く違う意味での恐怖を自らの内心に感じていた筈である。 ひょっとして事故の保険金支払いを、新会社が大きく被る可能性が高い。もし心配した再保険問題に該当するとすれば、大変な事にならないか。 そして、既に耳にしていた合併の大きな論点であった事からも予感は的中した。

【新装開店】PA談話室

PA世代へのメッセージや問題提起など「言いたいこと」を自由に書き込んでください。話題の硬軟は、どちらも大歓迎!!

リアルマガジン発刊

「プレミアムエイジ」のリアルマガジンが誕生しました。

プレミアムエイジマガジン

個人会員募集

プレミアムクラブ会員、賛助会員を募集中です。プレミアムエイジ個人会員募集中

プレミアムニュース

  • 山本冬彦コレクション展開催
    >>詳細
  • クーペ&Shifoがメジャーデビューします
    >>詳細
  • おじさんバンド 夢は紅白(読売新聞夕刊 「あっとほーむケイザイ」より)
    >>詳細
  • 団塊の軌跡(2)惚れた会社妥協せず ― 疾走、精根尽き果て(サラリーマン2007)
    >>詳細
  • 「団塊文庫」~団塊世代800万人の知恵、本懐を伝えていく自主書籍シリーズ~
    >>詳細

プレミアムコースト名護

はいれます終身保険悠悠はつらつ入院保険