一昨年(2005年)の秋、永年勤めた「あいおい損害保険株式会社」の役員(正確には上席常務役員)を退任させてもらった。サラリーマンとしては恥ずかしい話なのだが、実は三度目の自己都合による退職である。いつも説明のつかない「突然リタイア」であり、今回も過去の二度も、家族を含め、周囲の誰にも相談せず、理由も言わずの「我がまま」退職だ。特に今回の退社については、家族だけではなく、同僚、部下、取引先、友人達に至るまで、その理由を訝しげに思ったに違いない。サラリーマンとしては、極めて順調に、いわば「出世街道」を駆け抜け、誰もが「新しい社長の盟友として役員ポストにしがみつく」と思っていた筈だ。
それから2年の月日が経過して、若干の気持ちの落ち着きが出てきた中、改めてその理由について整理をしてみて気付いた事があった。いつも、それなりの様々な要素が絡みはしているのだが、この「退職」の原因をひとつの世代的要素として捉えられないかと、我が事ながら思案してみた。いわゆる「07年問題」(2007年、団塊世代一期生の大量退職の年)が、マスコミで集中的に取り上げられている中で、偶然、朝日新聞から取材の申込みを受けた事が、その発想の原点となった。朝日新聞では、団塊世代の起業モデルを追跡しており、若干「07年」を先取りした形で起業した経緯について取材を受ける事となった。同時に「07年」問題を、そもそも「問題視」する昨今の風潮に同意できない自分がそこに存在し、かつ自分こそ「団塊世代の代表的人生を歩んできた」との想いが大きく芽生えていった事も事実である。一足先に「07年」を経験する事となった実体験からの感想として言えば、これを「問題」として捉え、解決策を考えるロジックは間違いであり、むしろ積極的に社会的プラス効果として、これをどう活用するかであると提言したい。
この世代こそが、時代を構成し、文化を生み出しつつ、バブル経済を発生させ、そして彼らが去ろうとする「07年」を前に、見事に莫大な債務を、収束に導きつつあると捉えるべきではないか。
団塊世代を「少子高齢化」のシンボルとして論じたり、そのまま、シニア、シルバーのカテゴリーに放り込んでしまうマーケティング手法は間違いであると断言しておきたい。団塊世代は「07年」をリスタートの年として、改めて世代的自立を図り、今一度、時代を大きく展開させる重要な役割を演じる筈だ。その経験と能力、及び体力を含めて、衰える事なく、大きなプレミアを持った起業家を多数輩出し、ニュービジネスとして成功させるだろう。社会福祉活動を強めながら、より人間的な文化、芸術を創作し、新しいレジャーを生み出し、音楽を作っていく筈である。
一方、団塊世代は、堺屋太一の唱える造語「団塊世代」を好まない。団塊世代は、昭和22年〜24年生まれの人たちを指すというのが通説であるが、必ずしも世代的には正しい範囲ではなく(たとえば昭和20、21年生まれで、浪人後大学に入学した人達は、明らかに同一世代)、この「07年」問題を期に、新たなカテゴリーをたてて、団塊世代からの卒業を宣言してみようと思う。
このような流れから、Webサイト「プレミアムエイジ(PremiumAge.com)」と、編集長(キャップ)ブログを綴っていく事になった。「プレミアムエイジ」とは、昭和20〜26年生まれで、かつ第一次定年または還暦(60歳)を迎える人たちの総称としてカテゴライズする。(詳しい意図については、Webサイト「プレミアムエイジ」(http://www.premiumage.com/)のコンセプト参照。) Webサイト「プレミアムエイジ」の制作・編集は、主に団塊ジュニアが担う事となる。サイトのコンセプトは、「団塊世代の団塊世代による団塊世代の為の情報サイト」とし、綴っていく本ブログは、同世代人への提案と、団塊ジュニアへの会話として独断と偏見で大胆にチャレンジしていこうと思う。
「アカシヤの雨にうたれて このまま死んでしまいたい・・」当時、ラジオの深夜放送が全盛期。ラジオ大阪(OBC)の電波から流れる西田佐知子の歌は、学園紛争に明け暮れる若者たちの支持で大ヒットしていた。「チンペイ」こと谷村新司氏が、DJとして関西の若者達に絶大な人気があったのもこの頃。彼が奏でる「心の歌と絶妙なトーク」に、いつの間にか共感を覚え、心酔していった。関西フォークの旗手として登場していた「アリス・谷村新司」の口調の中にある、彼の人間性に惹かれていった青春真っ只中の時代である。
後日、この「アカシヤの・・」は、谷村氏最高の思い出の曲だと聴いて、不思議な縁を感じた次第である。何故なら、これから綴る独白の底辺に流れる「一人の人生のロマン」の主題歌でもあり、そこに彼との共通項が見受けられたからだ。「60年安保」を経て「70年万博」に移り変わる時代の影響が、我々団塊世代の骨格として色濃く影を落としている。
その後、50歳を過ぎて、偶然にも谷村氏との出会いがあり、同じ団塊世代の彼との思い出話に意気投合。いまや家族同士のお付き合いをさせていただいている。
一足先にサラリーマンを脱却して、一番強く感じるのは、「時間というものの自由裁量」という価値の大きさに気付いた事である。収入は間違いなく半減したにも関わらず、退職後のたった2年の間に、海外旅行を8回も経験出来た事に驚く。時代は違うとは言え、サラリーマン通算35年間で、同じく8回程度の海外経験しかないが、ただその8回の旅とて、どれも忘れられない思い出が詰まったものだった。
「時間的余裕のなさが、サラリーマンの最大の悲劇である。あまりに長い通勤時間、無駄を承知の会議や打ち合わせの時間、付き合いたくもない人とのつきあい酒席の時間。要は、仕事以外にサラリーマン村に所属するために費やさざるを得ない時間から解放されるや、とてつもなく長い時間が、今後の人生に残されている事に愕然とする。おそらく退職後の10年は、現役時代に自らのために使えた時間の3倍(30年分)くらいの時間的余裕に繋がるのではないだろうか。
高杉良の小説「青年社長」に描かれたことで「わたみ」の経営者・渡辺美樹氏を知る人は多い。一世代若手の尊敬する経営者の1人であるが、彼の講演会を主催した時に教えてもらった事がある。テーマはご存知「夢に日付を」であり、本も出版されているが、その後、彼の言葉と前置きした上で良く引用させてもらっている。実は自らも、あいおい損保入社に当たって、ひとつのメモを妻に預けていたのだが、退職時にそれを返却してくれた。もちろん、メモの存在はとっくに忘れてしまっていたし、書かれていたものは単なる係長、課長、部長といった昇進目標でしかなかったのだが、驚く事に、この目標が2年の誤差もなく達成出来ていたのだ。残念ながら、この目標は55歳の役員就任で終了している。(57歳社長と書いていなくて本当に良かった。(笑))サラリーマンとしての単純目標を、洒落という形で妻に渡していた「タダのメモ」ではあったが、潜在意識の中では使命感となっていたのかもしれない。しかし、このメモは目標であり、渡辺氏の言う「夢」ではない。「夢に日付を」入れて進むべき時代の到来が「プレミアムエイジ」なのだ。改めて「夢に日付を」入れて、これからの人生を再スタートするためにも、長い独白を進めていこうと思う。(思い違い、勘違いが、たくさん出てきてもあえて訂正せず、出来る限り事実に基づき、フィクションなしで書き進めていこう。)
サラリーマンの終演を決意して辞表を提出する前日、女房と子供3人を集めて結論のみを伝えた。思えば、走り続けてきたサラリーマン生活の中で、子供達と親子の会話は全く存在せず、勝手に成長し自立して、既に家を出ていた。気が付くと、4人の孫がお愛想のように顔を出してくれる現実に、正直戸惑いを隠しきれない。「孫」という響きに大いに抵抗感もあり、「孫が可愛い」という年齢については、断じて「No」である。孫よりも息子達であり、未だに息子達よりも自分自身の生き様に、未練が大きいというのが本音である。
あの時、何も聞かずに女房、子供達は「いいよ、好きにしたら」と即答してくれた。全てを理解しての返事であるとはとても思えず、むしろ完全自立の「他人宣言」のようで寂しくもあったが、我が家の初めての家族会議は、僅か10分で終了してしまった。
孫達の成長ぶりを横目に見つつ、逆に息子達との思い出の無さを痛感する。母親との会話は十分であったのか、それすら覚束ない。親の育ってきた環境や、経済状態すら理解せず、説明も受けずに、ただ「親の背中」だけを見て育ち、彼らも「団塊ジュニア」と呼ばれる新たな世界を作りつつある。
息子、娘達にも、最初で最後の会話の機会になるかもしれない。団塊世代と言われて生きてきた親達の真実の姿を、出来る限り正確に伝え、彼らからも素直な印象を聞いて見たい。60年の生き様を振り返る事で、教えられる何かがあるかもしれないし、説明すらしなかった「3度に及ぶ退職」理由の理解に繋がるかもしれない。それは、「戦争を知らない子供たち」と呼ばれた世代にも「壮絶な戦争体験」があった事を意味し、団塊ジュニアの平和な時代に、警鐘を鳴らす一助にも繋がる事を期待する。
1947年(昭和22年)、「新憲法が発布された年」の6月、河田家の4男(実際には5男、戦後すぐ生まれた4男は3ヶ月で死亡)として、あの阪神大震災で最大の被害地であった、神戸市長田区で生を受けた。名前は孝弥であるが、戸籍上の孝弥の「彌」は略字が採用され、当用漢字には存在しない。親は当時の名門企業、日本郵船のサラリーマンであったらしく、そのことで徴兵を免除されたと聞いているが、事実かどうかは定かでない。戦後すぐに脱サラ、当時もヘッドハンテイングがあったのかどうか、東京の戦後急成長した運輸会社の神戸支店長として転職、その後その会社が倒産した為、乙仲業と近海航路の船会社を始めたという事だ。(いずれにせよ、兵隊に行っていない親父に、子供心に極めて大きな不満を持っていて、何故か尊敬の念は皆無であったのだが、確実にその血は引いている。)
河田家の苦労はここから始まることになるのだが、苦労を感じるほど成長していなかったようだ。戦後すぐの経済状況の中、独立自営の道は倒産の繰り返しとなり、16歳年上の長男を筆頭に、子供4人は食べ盛り、困窮を極めていた。戦後のどさくさの中で生まれた4男坊(母、41歳の時の子)の存在は、不要そのものであったに違いない。「近くの湊川で拾われた子だ」と誰となく冷やかされ、そうかも知れないと本気で悩んだ事もある。少なくとも、父親が脱サラ前に幼少期を過ごした長男、次男の恵まれた環境とは、大きな開きがあったであろう事は想像に難くない。(兄貴達の書く綺麗な文字の中に、環境差に対するコンプレックスがあった。)
住まいは、路地を隔てて2階建ての5軒長屋が2棟並ぶ、会下山(えげやま)という小山の中腹にあった。その路地が少学校へ行く以前には、生活の場の全てであり、ビー球、メンコ、チャンバラごっこをはじめ、2メートルもない路地にも関わらず、果ては野球場にもなっていた。当然、当時は汲み取り式のトイレであり、路地の溝にはいつも汚物が流れ出ている環境の中、その溝に何度もはまるボールを追い掛け回していたのに、腹痛一つ起こした事もなかったのが不思議である。(25歳で結婚するまで、この家で暮らしたが、叔母が家主の借家であった筈なのに、ずっと持ち家と勘違いしていた。震災で今は跡形もない。)着ている服は全て「お下がり」。(こんな言葉さえ今は死語)ズボンの後ろには「丸いキャッチャーミットの継ぎはぎ付き」だったが、何の不満も感じなかった。大事にしていたのが、兄から貰った布製の軍手のようなグラブで「プロ野球の選手が使っているのと同じだ」と教えられて信じていたが、テレビのない時代だから、騙されていたのかもしれない。(孫たちの衣服がブランド物であることに、妙に嫉妬心を覚えてしまうと同時に、そんなものを着せても本人達は覚えていないのだから無駄だと、息子たちに説教のひとつもしたくなる。)
もう一つ思い出したが、ゴム底の運動靴から、いつも親指が見えていたのに、かまわず道端の石ころを蹴り歩いていたのは、この頃から小学校の中ごろまで続いていただろう。(3年ほど前にナイキのシューズマニアであった次男坊から、お下がりとしてもらったレア物のナイキのシューズは履いて歩くだけでウキウキするほど、未だに自分にとっては宝物であるのだから情けない)
とにかく朝から、暗くなるまで泥だらけになって遊びまわっていたのに、誰からも怒られず、不健康さを心配される事もなかった。幼稚園に通う年齢になっている事も知らず、ただ5円玉を握り締めて駄菓子屋通いをしていた記憶だけが微かに残っている。
「剣を執っては日本一に 夢は大きな少年剣士・・・・・・・」 ラジオからは「赤胴鈴之助」のテーマソングが流れていた。連続ドラマの「君の名は」の大ヒットも、耳元に微かな記憶として残っている。大人も含めて、ラジオが「娯楽」の全ての時代で、メルボルンオリンピックでの水泳の山中の活躍を途切れる音に、耳をそばだてて聞いていた。裏山の貯水池には「MP」という米兵が、鉄砲を引っ提げて歩いていた。道はどこも舗装前であり、広い道まで出ると、たまに馬車に出会い、馬糞も残っていた頃である。
1954年(昭和29年)ある日、突然小学校へ入学していた。唐突ではあるが、この言い方がピッタリであり、「もうすぐ小学校」というような高揚した気持ちは全く記憶にない。それは、幼稚園という施設経験がなかった事に起因する。いきなり小学校通学というのは、極めてハードな環境変化であった筈なのだが、当時の判断力の中では、その事に気付く術もない。幼稚園へ行けなかったのか、行かなかったのか、それが当時に於いても、特に貧しい環境であったのか定かではないが、とにかく団体生活の経験がなく、平仮名すら書けない小学1年生がスタートした。もちろん、放任主義教育しか取れない我が家の家庭環境の中、机も鉛筆も持った事がないし、周りの悪仲間も総じて同じ環境であり、みんな幼稚園などの存在すら知らなかったのだから、不信感も不満も残っていない。問題は、入学した小学校が、歩いて30分もかかるK小学校になった事で起こった。
当時、その理由を知る由もないが、いわゆる越境入学だ。近くに(7〜8分の距離)M小学校があるのに、自分だけ一人ぼっちで6年間を皆勤で通した。(その後、中高とも10分以内で通学出来たのに)ただの公立小学校ではあったけど、そこに通う1年生は、何故かみんな読み書きが出来る。すなわち、当たり前の如く、幼稚園を卒園してから入学して来ていた。
1クラス60人で10クラス、1年生の時は教室が足りなくて、「朝行き」と「昼行き」が1週間交代に替わるシフト通学が面白かった。クラスは梅、松、桜、菊、紅葉と、赤、青、黄、白、緑。よく覚えている。幼いながらも働く知恵は、出来るだけ目立たないように、大人しくしている事でしかなかった。先生に、自分の存在だけではなく、名前すら覚えられないように、隅っこに隠れるようにしていた自分の姿を思い出す。2年生までは、今で言う典型的な「いじめられっ子」であったが、誰に訴える事すらなかったが、これこそ自分自身の無垢の姿である。
入学して、学校にも慣れた頃、大事件を起こした。今日の今日まで、誰一人として漏らす事も出来なかった「秘中の秘」の事件である。授業中にたまらず、いわゆる「お漏らし」をしでかしてしまったのだ。今も、その時の恥ずかしさに赤面を禁じえないのだが、手を上げて「先生、トイレ」とはとても言えなかった。おまけに授業が終わるまで、その事を誰にも告げず放置したままじっと座っていたのだが、机の下にできた「世界地図」を仲間が発見しない筈がない。当然皆が集まってきて大騒ぎになったが、「自分は知らない」とシラを切り通しながら泣き出してしまった。この事については今だに夢を見てはっと目覚める事がある。子供ながらも、人間形成の第一歩を飾る最初の大事件であった。
時は流れ、テレビが普及し始めると、力道山というプロレスの英雄が登場する。大きな外国人を空手チョップで投げ倒す、そのリアリティに目覚め、興奮、感動する。すぐ上の兄に連れられ、近くの喫茶店に行き、外からテレビを精一杯の背伸びをして見る。そのうち、もう少し遠くの公園の街頭テレビに応援に行く。その頃に彼らの活躍を見た事で、自我と正義感が目覚めたのだと思う。一方で、この頃アメリカの第七艦隊が神戸港に入港したと聞いては出掛けて行き、船上から兵士が投げるガムやチョコレートを必死に追いかけていた。時には、真っ赤に焼かれた小銭を投げられ、火傷をさせられても何の矛盾も感じなかった。
近くの駄菓子屋にテレビが入った頃、相撲の若乃花(先代)に嵌っていく。勝つと自らも勝ち誇り、負けると悔し涙が自然と流れてしまう。そして学校でも、校庭に丸い円を書いて、相撲が大流行となる。これが自分にとっての大転換期になった。何故か、相撲だけは誰とやっても勝てるのだ。弱虫をひた隠しにして、出来るだけ目立たぬようにしていた自分にスポットライトが浴び出した。おそらく相撲だけは小学校で一番強かったと、今でも誇らしげに思い出す。しばらくすると、世の中が変わって見えてくる。弱虫で喧嘩などした事もない自分に、いつの間にか子分的仲間が集まってくる。卒業の頃には、いわゆる「番を張る」存在になっていた。
1959年(昭和34年)、現天皇陛下が「皇太子として初めて民間から妃殿下を娶られる」という事で大騒ぎになった。テレビの普及が一気に高まり、我が家でも「極めて無理」をして、その日の直前に、14インチのテレビが届いた事から、お二人の晴れがましい姿が長く目に焼き付けられた。近所では極めて早いテレビの購入で、プロレス中継は、自宅が近くの人たちの劇場に変貌するような時代である。子供心にも、そんな見栄を張る親父が嫌だった。結果として、早熟テレビ型少年が生まれる事になった。
5年生の頃からは、草野球にも夢中になっていた。プロ野球中継がテレビで放映され出した頃である。無論、土地柄もあり、熱狂的阪神ファンとなっていく。「牛若丸・ショート・吉田」に憧れて、初めて作ってもらったユニフォームの背番号は、当然23番。草野球では腕力にモノを言わせ、1番ショートが定位置である。自分にとって黄金時代であった。その頃の草野球にも、何故か近くの大人でスポンサー兼コーチがいた。未だにどういう人であったのか定かでないが、野球道具の面倒から、時には食事までお世話になっていた。「中学はここへ行き、高校はここへ行きなさい」と、プロのスカウトのように支援をしてくれていたのだが、何故か本質的に馴染めない大人であった。今考えると、大金持ちの子息ではあるけど、変質的性格があったのではないかな、と思い出される。しかし、その人の言う通りにすれば、いつかはプロ野球の選手になれるかもしれないという、大きな夢を持たせてくれた大事な人でもあった。
5年生の夏に、もう一つの事件が発生する。近くの公園で野球に熱中して遊んでいたところに、突然救急車が乱入してきた。学校の給食で「集団赤痢に感染している」とかで、そのまま隔離入院、これが生まれて始めての親元を離れた外泊であった。体は痛くも痒くもなかったが、3日間泣き続けた。ただ親離れの寂しさ故である。しかし4日目からは、仲間と騒ぎまくって遠足気分に変わり、15日間の入院生活を終えた。今ならテレビのトップニュースとなり、大騒ぎとなっている筈だが、当時では事件にもならなかった。
そう言えば退院祝いという事で、前述の草野球スポンサーのおじさんに、本物のプロレス観戦に連れて行ってもらった。「フレッド ブラッシー」という世界チャンピオンが日本で大活躍していた頃で、胸躍らせてリングサイドで観戦したまでは良かったが、場所が悪かった。舞台裏が見えてしまったのだ。いつも額から血を吹く姿に興奮していたのだが、彼がリングサイドに落ちてくるや、その「血の演出」を見てしまったのだ。もちろんその日以降、プロレスファンでなくなると共に、大人の世界を裏から眺める癖がついてしまったように思う。
小学校を通して、自宅では教科書を開いた記憶がない。(もちろん自分の机1つ持てなかったのだから当然であったが、今の我が息子たちの環境との違いに、今更、嫉妬心を抱いても仕方がない。)何故か授業だけはしがみつくように聞いていたのは、何かが怖かったのだ。
「月光仮面のおじさんは 正義の味方よ 善い人よ・・・・・」テレビでは「月光仮面」、「番頭はんと丁稚ドン」に夢中であった。町には車が走り出していたが、学校の帰りには走るトラックの後ろの足掛けにぶら下がり喜んでいた事を思うと、時速は30キロ以下くらいの性能であったのだろう。喜劇役者、大村昆のテレビコマーシャルでダイハツの「ミゼット」が大流行、乗り合いタクシーとして活用され始めていた。ちなみに、初めて映画館で見た映画が東映の「紅孔雀」であったと思うが、当時は3本立て興行の筈なのに、他の題名は思い出せない。
1960年(昭和35年、いわゆる「60年安保」の年、何故か樺美智子さんの死亡だけは印象に残り、安保反対の臭いを引っ張っていく)越境入学を見送り、校区であるM中学へ入学した。校舎は「夏暖房、冬冷房」の新築プレハブ平屋建て、クラスは55人の18クラス。まさに団塊世代を象徴する環境が整っていた。小学校越境組みの数人を引き連れて、「K小学校の番長」は、先頭を切って入学式に臨んだのだが、その日のうちに、小さくたむろしている我々のところに数人が乱入し、いわゆる「カツアゲ」という儀式に無抵抗であった。自分の中にあった、腕力による存在感は、入学式当日で完全に崩壊し、桁違いに「力づくの学校」である事は理解出来た。
翌日には、予定通り野球部へ入部したはいいが、新入部員は100人超で、一ヶ月間はボールにすら触る事も出来ない。ただ外野手の後ろを遠巻きに並ばされて、1日中声を張り上げて、先輩達の練習が終わるのを待つのだが、その後が地獄である。狭いながらもグランドを全力疾走で10週走らされ、その後「うさぎ跳び」とやらでもう1週、最後にグラウンド整備を「トンボ」という道具でやるのだが、人数が多くて道具が足りない。この間に2年生が出てきて、ボール数のチェック、その日になくしてしまったボールの数に合わせて「ケツバット」という体罰が加わる。5個足りなければ5人が犠牲になる。「トンボ」を確保できない要領の悪い者から順番に選抜されるのだから、グランド整備とボール探しこそ、一年生にとっては本番である。この体罰は半端ではなく、1年間、尻に青あざが耐えた事がなかった。
こうして一ヶ月が経つと、新入部員は半減し、2ヶ月で3分の1、1年後には10人になっていた。よくも耐え切ったものだと今更ながら感心すると共に、その中学時代の野球に対する下向きな純粋さに、我ながら感動する。前述のような体罰以外にも、当然ながらビンタは飛ぶし、ゲンコツもある。暴力が教育の一環であり、それは誰もが(父兄ですら)認めるところで、時には教師も暴力で指導しないと、学校の秩序が維持出来なかったのも事実である。現在では大騒ぎされる暴力教師や、カツアゲ事件は、日常茶飯事であった事と比べれば、今では信じられないが、どちらの教育が正しいのか、判断に迷うところだ。
1年生の中でも、野球部の夏の大会が終わるまでが、本当につらい日々であった。もちろん練習中は、一切水分の補給は禁止であり、野球部は肩を壊すからといって大好きな水泳も禁止であった。とにかく、この地獄から脱出するためには、夏の大会で3年生が速く負けてくれる事。それのみを祈りながら、神戸市民球場の内野席で、先輩たちのミスと敗戦だけを心待ちにしながら応援するフリをしていたのを思い出す。
開放の日が来た。準決勝で敗れた先輩たちに、何故か試合には無関係の1年生が、負けた責任をお詫びして無罪放免。早速仲間3人で禁止されている大好きな水泳に、隣の市民プールに駆け込んだ。当時の市民プールは常にイモ洗い状態の超満員、警備員は居たのだろうが記憶の中にはない。おまけに週に1度しか水の交換はなく、いつも水の色はどぎつい緑色であった。風呂の普及がない中、シャワー設備も十分でなく、いきなり飛び込み、体の洗濯も同時にやっていた。おまけに消毒剤がどんどん追加されていった事から、独特の色と臭いをかもし出していた。
大事件はそのプールの帰りに起こった。1人の友人が、帰り道で強行に映画に誘ってきた。観たい映画は長田東映の「青春残酷物語」というのだ。プールに行ったことだけで十分に臆病風に取り付かれていた自分にとっては、大冒険であったが、誘いを断る勇気もない。おまけに入り口には「18歳未満お断り」の看板がある。我が友は十分その意味を承知の上での誘いである。「ままよ」の心境で飛び込むと、丸坊主頭の中学生なのにお咎めは無く、すんなりと劇場の中に入れてしまった。席に座ってしばらくしてのその映像は、今もはっきりと覚えている。超美人(に見えた)の「桑野みゆき」が、夏の海に突き落とされ、「言う事を聞かないなら助けない」というような場面であった。男優は全く覚えていない。ただ「桑野みゆき」のシャツが彼女の肌にぴったりと張り付き、その乳房が透けて見えそうになる。(想像しただけでそんな場面は無かった)その時の興奮は、おそらく自分が男である事を、初めて認識させられた瞬間であった。
その時である。後から不意に肩を叩かれた。いわゆる「補導員のおっさん」が後ろに立っていた。そのまま事務室のような場所で、取調べを受ける事になったのだが、いきなり天国から地獄へ突き落とされたような恐怖感と、惨めな気分は忘れられない。一体、何がそんなに怖かったのか。度胸という点では既に(自らは勇気がなくてやれなかった)万引きの類や、恐喝まがいには立ち会っているし、おこぼれの戦利品が廻ってきた事もあった。しかし、この恐怖感は全く質を異にしたものであった。それは18禁の「エロ映画」を観ていた自分を、親がどう考えるのか、先生はなんと言うのかという恐怖感が、男のプライドと共に芽生える全く異質の感情であった。日頃は、親も教師も全く無視して生活していたつもりの中で、その耐え難き辱めは、性というものに対するその後の自分に、計り知れない影響を与えた。今考えると、「18禁映画」と言えるような代物ではない極めてノーマルな映画である。(この映画について、この文章を書きながらDVDを借りて来て、改めて見直した。当時は僅か10分しか観れずに興奮の瞬間が終わった事を、45年ぶりに再確認したのだが、それは大島渚の代表作であって、60年安保を控えて苦悩する大学生たちと、日本の状況を伝える、偶然にも団塊世代に極めて共通する秀作であった。今見直すと、何故「未成年鑑賞禁止」であったのか理解に苦しむ)その時の仲間の一人、S君は入学当時、確か「時計の針」も読めない状況であったが、野球のセンスや、大人度については少なくとも自分より数段上だった。3年生になると、彼は正捕手となり、しっかりサインプレーをこなしていたのは不思議であるが、その後どうしているだろう。自分はと言えば、プロ野球を夢見つつ、いつの間にか「立教から巨人への長島」の影響を大きく受け、サードのレギュラーポジションを確保していた。中学時代は、野球と暴力に順応していく事が全てであった。あんなに苦労して勝ち取ったサードベースも、夏の大会で1回戦負けして、プロ野球への夢も遥か彼方に飛んで行ってしまった。
中学時代にもう一つ覚えた事といえば、いわゆる博打の面白さである。授業中にも関わらず、後ろの席から声が掛かり博打が始まる。何故かポケットには10円玉を5枚入れておかなければならない。この「小さな博打」は、4人揃えばいつでもどこでも開帳される。ルールは、各自自分の持っている10円玉5枚のうち、何枚かを手に握り、順番にその合計を予想し言い当てていく単純なものだ。1枚以上5枚まで、何枚握っても良い。4人でゲームをすると、最低は4枚、最大で20枚となるが、最後は一斉に手を開き、当たっている人がいれば総取りとなる。度胸と推理力の両方が必要な、なかなか面白いゲームである。誰かが言い当てれば巻き上げられる事になるため、基本の握り方は当然各1枚。合計予想を順番に告知していくが、先に押さえられた枚数は放棄せざるを得ない。もし最初の人が4枚というと、彼は「全員1枚」という予想であり、自分自身が1枚しか握らなかった事を宣言したに等しい。2番目の人がやむなく5枚といえば、彼も1枚か2枚という事がわかる。最後に宣言する親だけは、全てを読んだ後で答えられるが、答えを既に正解を取られてしまっているリスクがある。もし自分が、最大リスクである5枚を握っていれば、答えは8枚以上20枚までになる。また1番手の人は3枚握って4枚と答え、とぼけて試合を放棄しているかも知れない。単純だが面白いゲームで、誰かが「手本引き」という本物の博打を真似て創ったものを、遠足のバスの中へ持ち込んだというから驚くほかは無いが、いつの間にか授業中にまで拡大してしまったのだった。
たまに日曜日に、野球部の先輩に呼び出される事がある。草野球のソフトボールをやるのであるが、参加するためにはこれまたお金が必要だ。当然、2チームに分かれて試合をする訳だが、その試合に自分の好きな金額を賭けなければならない。キャプテンが、最後にお互いの賭け金を調整して賭けることによって、いくら賭かっている試合かが決定される。帳尻が合っているから、確実に勝てば掛け金が配当として戻ってくる。ミスは絶対に許されない。ある意味、プロ野球の世界である。その緊張感は苦しいほどのもので、精神的には、野球部の練習よりも役に立ったかもしれない。中学2年生、13〜14歳の頃である。かくして長島に影響を受けながらも、暴力教室さながらの中学生活を、3年間の野球漬けで終了。小学校時代と違い、授業中はもちろん、家でも勉強とは無縁の世界となったが、大人としての度胸と教養は、この中学時代に身に付けてしまった。
3年間の経験と、培った友情の幅は無限に広く、同窓の仲間として、東大卒の高級官僚から、Y組系のヤクザの親分まで存在する。その中間あたりに位置しながら、団塊世代の人の幅と、環境による人生の矛盾を学び、大人への階段を上っていく事になる。
自宅では一時的にテレビ離れを起こし、ラジオ派に戻っていた。押入れを自ら改装してやっと寝れる程度の小部屋を作り、小さな音で神戸放送の「電話リクエスト」に聞き入っていた。
習いたての英語の洋楽を、電話でリクエストして名前が読まれるのをドキドキしながら待っていた。「ムーンリバー」「片目のジャック」「ボーイハント」の3本がリクエストの定番であった。レコードを買う小遣い銭も無かったのに、家には親父の見栄でステレオが入り、クラシック全集があったので、やむなくそれを聞いてはいたが、ラジオでこっそり聞く音楽が一番だった。映画も、あの事件以来見なくなっていたが、唯一封切館で見た総天然色映画「ウェストサイド物語」は、これまで見た全ての映画に勝る名画として、そして今も、紫のシャツを着る「ジョージ チャキリス」が最も格好のいい男性像として残っている。その後のアメリカへの憧れがこの映画一本で出来上がってしまった。
1963年(昭和38年)、ケネデイ暗殺事件の生々しい映像を、テレビの宇宙中継で見たのが、 「テレビニュース」との出会いであった。
「プロ野球選手への夢」が、如何に遠いかを現実感の中で捉えつつ、 なんとなく考え始めた将来の仕事が新聞記者であったのは、この事件がきっかけであった。 それまでのテレビ番組で大好きだったのが、NHKの連続ドラマ「事件記者」であった事に リアリティを持ちながら、「アメリカ」を至近距離で感じ出してもいた。
その年に、受験勉強もしないまま、兵庫県立Y高校へ入学することとなった。 中学からの帰り道、外野越しに軟弱野球部の練習を冷やかしていた元名門女子高校。 これが母校になるとは、考えもしていなかった。 当然、自分は県立H高校へ行くものだと決めていたし、野球で市立S高校からも誘われていた。 同窓生には叱られるのを承知で白状するが、校外では絶対に母校の帽子を被らなかった。 だがこの学校も、今日の自分を作ってくれた大切な学校である。 あれほど馬鹿にしていたのに、結局は野球部に入部するのだが、中学の厳しい練習に耐えてきた自分は、 入学当初から生意気の度を越していただろう。 監督は地理の先生で、野球経験が全く無い全くの素人だったこともあり、希望ポジションを聞かれ、 「サード」と答えたら、ただ一人1年坊主でサードのレギュラーの位置が手に入ってしまう。 おまけに、この年(1年生)の夏の大会で、開校以来初めてという「兵庫県予選ベスト16」まで勝ち抜く幸運に恵まれ、 学校上げての大騒ぎになってしまう。兵庫県大会は、2回戦を勝ち抜くと、あの憧れの甲子園で戦える。 あれから40年経っても、「甲子園の土」の感触は忘れられない。
後日談だが、子供が野球を始め出した頃、息子達二人に「お父さんは甲子園に出たんだぞ」と嘘を言ってしまった事がある。 それを聞いた長男が「うちのパパは甲子園の選手だったんだぞ」と、友達に威張っているのが耳に入って大慌て。 本当は「甲子園で野球をやった事がある」の間違いだったと、初めて子供たちに頭を下げて謝ったものだ。 予選大会で勝つ喜びを覚えてからしばらくは、再度野球漬けの高校生活になっていった。 弱い野球部が校内でも注目される存在になり、甲子園の常連こうでもあったS高からも練習試合の申し込みが 来たりした野球部の絶頂期である。
余談ではあるが、そのS高との練習試合には、後に阪急のピッチャーとしてプロ野球選手となったMと、巨人の正捕手となったYがいた。 我々との試合では、捕手の筈のYがピッチャーとして登板したのだが、そのボールすら見えないほど早かったのだから、 プロを目指す野球のレベルの高さは半端ではない事を悟らされた。
それでも野球部は、一時的にも花形であり、元女子高であるだけに、かわいく賢い女子高生も多く、 いつの間にかファンクラブ的存在が出来あがっていた。 当時は、吉永小百合が絶頂期のころであり、誰もが「サユリスト」で思春期をごまかそうとしていた頃である。 ところが、野球部のA君にもB君にも、いつの間にか彼女が出来ていた。 中学時代の映画館事件以降、タブーとしてきた性への恐怖感はいつの間にか吹き飛んで、ファンクラブの1人、 K嬢に初恋経験をする事となった。野球に対する情熱は、S高とのレベル差で痛感させられていた事もあり、 2年生で見事に1回戦負けしたのを潮時に、その夏限り、きっぱりと野球を断念して退部する事にして青春を謳歌することを選んだ。 2年生になって直ぐの遠足の行き先は出来たばかりの琵琶湖大橋であったが、 なぜか1年生時代の同級生何人かで集まって悪ふざけを考えた。理由は覚えていないが、反抗期であったのだろう。 制服への抵抗心であったかもしれない。とにかく、ズボンに大きな継ぎはぎをつけて、長靴を着用して参加することにした。 ところが2年生ではクラスがそれぞれ違うので、一人ぼっちで主張を続ける度胸が無いものだから、 いつの間にか長靴もつぎはぎも隠してしまうなんとも中途半端なパフォーマンスに終わってしまたのだが、 何とか「バンカラ高校生」を演じたい気持ちと理由も無く抵抗心だけが強かったのだろう。
生まれて初めて「神戸市立図書館」に行ってみた。勉強ではなく、デートの場が図書館ぐらいしか 思い付かなったのだからかわいい頃でもある。 入ってみると一生懸命に勉強している高校生が沢山いることに戸惑いを感じて30分すら時間は持たずに出て行ったと記憶している。 本当に初めて、勉強というテーマに気づいたのがこの時期であり、青春を謳歌する間もなく、 その後の高校生活を一気に暗闇の中へ落としていくことになる。 思えば、それまでは自宅で勉強をした事などなかったし、「学校の勉強ほど無意味なものはない」と本気で考えていた。 2年生の秋になる頃、「彼女」との話も自然に進路について話す事が多くなった。 大学受験が、急に目の前に迫り、二人でKG大学を見学に行ったりした。親父と次兄の卒業した大学であり、 自分なりにもこの大学が志望校として漠然とはあったのだが、行ってみてその素晴らしい雰囲気に、正直一目惚れしてしまったのだ。 母校のレベルではKG大は志望校とするには実力差がありすぎた。 おまけに勉強というものを自主的にした覚えがない上、初恋に夢中の時期である。 おまけにKG大の受験には大の苦手の数学が必要と判明した。 小学校の算数以降、中高を通して数学の基礎を持たない自分の実態はよく知っている。 決断は一目惚れのKG大をとるか、初恋のK嬢をとるか、究極の選択をせざるを得ない。 今更受験に間に合うべくもないタイミングでもある。 彼女にも強い志望校があり、二人で話し合って「別れる以外にない」という結論に至ったのだが、 青春真只中で、良くも思い切れたものだと思う。改めて考えてみると、 彼女とそのまま再会する機会がなかったという事からして、初恋が最初の失恋であったのかも知れない。
(実は大学時代に彼女と一度だけ再会する事件が起こるのだが、この件は後に譲る。)
「別れても 別れても 心の奥で いつまでも いつまでも
覚えておいてほしいから幸せ祈る 言葉に代えて 勿忘草をあなたに あなたに」
と当時流行の歌の歌詞を自書した本をプレゼントされたはずだが、本の中身が思い出せない。
「赤い夕日が 校舎を染めて・・・・・・・」
「・・・・・・・汽車は行く 汽車は行く はるばると はるばると・・・・・」
舟木和夫の「高校三年生」、「修学旅行」が大ヒットしたのは、やはり団塊世代狙いのマーケティングの勝利であったのであろうか。 1964年(昭和39年)、東京オリンピックの年であったが、その白熱した世界の戦いと「東洋の魔女」と言われた 日本バレーの活躍の時が、皮肉にも秋の修学旅行とぶつかってしまう。
修学旅行の途中、街頭テレビで見た「東洋の魔女」が金メダルを取ったシーンを思い出すが、一方で、 見ていた視点が美人揃い(?)の魔女の中で、無理矢理見つけた好みの顔が「宮本」という選手であったと記憶している。 要は、スポーツの中にも「性への興味」が優先して混入していた頃でもあった。
本来楽しい筈の修学旅行で、人生3つ目の大事件を引き起こすことに事になっていく。 初恋の思いを断ち切り、「サユリスト」に戻り、ひたすら算数を数学に変える努力は、「暗黒の人生」そのものである。 一番遊びたい時期である筈の高校生活が、地獄に感じるほど辛い日々でもあった。 九州への修学旅行は、正直楽しむ余裕はなかった。 自分には残された時間が無く、寝る時間を削る以外に手はないくらいに気持ちは切迫していた。 欲求不満状態のまま、気が付くと修学旅行もすでに帰りの夜行列車となっていた。 もはや記憶が定かではないので、一部想像が入ってしまうのだが、退屈しのぎに、後列に乗る友達のところへ歩いて行く途中に、 ふと足をかけられた(気がした。)顔を見ると、ガムを噛みながらニヤケてる(ように見えた)N君である。 あまり付き合いもなく、良く知らない筈なのに、「日頃から気が会わない軟派なヤツだ」との思いが走り、 彼から喧嘩を仕掛けてきたと咄嗟に判断した。お互い無言のままだが、阿吽の呼吸で列車の後部デッキまで進んだ。 気が付いた時は、デッキの厚い窓ガラスが割れ、彼の顔面と自分の右腕が血だらけになっていた。 間違いなく、自分が先に手を出した。 足をかけられたのが先との思いが強く、デッキに出たら一気に決着をつける覚悟をしながら歩いて行ったところまでは良く覚えている。
あれから40年、まだその傷は右手から消えることはなく、様々な教訓を呼び起こしてくれる。 「中指はまっすぐにならないよ」と言われた、阪神ファンの九州の「ヤブ医者」も良く覚えている。 大事な修学旅行の、みんなの思い出まで台無しにしてしまった責任も、すぐに理解出来るほど、その後は冷静であった。 事件の経過から考えて、当然の結果として退学を覚悟しつつ、手術した右手を抱えて、 翌日、別便でみんなの乗る修学旅行列車を追いかけることとなった。 何故か、随分先行しているはずの修学旅行専用列車に神戸の手前の姫路で追いついた。 まず「気まずい思い出」にしてしまったみんなに謝ろうと思って乗り移ったのだが、当然面会出来る筈もなく、 神戸に到着するや、引き取りに着てくれていた母親に引き渡され、そのまま自宅謹慎となった。 なぜか「処置は穏便に」という事で、停学処分1週間という軽い罰に落ち着き、そのためか事件後、 学内ではその話についてはタブーとなっていたらしい。この事件以後、本当に勉強一筋になれた事が、 難関KG大入学に繋がった事だけは間違いない。
(先日、卒業40周年の同窓会に初めて出席させてもらった。 出来れば喧嘩相手のN君と迷惑を掛けた仲間のみんなにもお詫びをしたかったのだが、 残念ながら彼は欠席で、お詫びする機会にも恵まれなかった。 この大事件は、ほとんどの人には知らされないまま、列車は進んでいったという事を、その時初めて教えられた。 Y高では「悪として有名人である」との一人よがりのまま、40年過ごして来たようだ。 「責任の取れない迷惑はかけないようにしよう」との教訓も得たつもりであったが、時の先生方の計らいで、 迷惑をかけたのは、N君と担任のS先生だけであったのかも知れない。)
3年生にあがる時に、また一つ事件が起った。 親友で野球部同僚のA君が、単位不足で留年すると聞かされ、直ちに単独、職員室に怒鳴り込みに行ったのだ。 彼は自分が野球部を辞め、その他の部員が辞めていった後も野球部に残り、部活動のみに打ち込んでいたのである。 あの事件ですら穏便に処置された事からしても、担任教師のさじ加減ひとつの筈である。 残念ながら決定は変わらず、彼はその後、夜学に転校していく事になってしまい、当然のごとく、 彼の人生も大きく変わらざるを得なくなった。
今は彼も病死し、時の教師も亡くなられてしまったとかで、最近では、「成績以外の理由もあったのかも知れない」と思うのだが、 真実はわからない。彼はその結果、一足早く大人になり、その後より親しく付き合うようになっていく。 いわゆる初めてできた親友でもあった彼からは「ビートルズ」を学び、「アイビールック」を学び、「大人の世界」を教えられ、 後には「営業の真髄」をも教えてもらう事となったのだが、50を過ぎて、肝硬変で亡くなってしまった。 リタイア後にもう一度、ゆっくりと付き合いを深めたかったのに残念である。
1966年(昭和41年)、高校生活が終わろうとするころに、団塊文化を創造したと言っても過言ではない 永遠の大アーチスト「ビートルズ」が来日した。 関西からも沢山の高校生が、周囲の反対を押し切って日本武道館へ駆けつけるほどだったが、 彼らの偉大な音楽性に気づくのはしばらく後の事となる。
受験戦争の辛さの最中、唯一心を和ませてくれたものは、音楽よりも高倉健の「ヤクザ映画」であった。 健さんのリアリティ迫る演技は「日本人」の持つ「義理と人情」の素晴らしさを表現していたし、 その後の生き方にも少なからず影響を及ぼした筈であるが、実は一方で、映画の世界ではない現実の「本物のヤクザ」 というものの厳しさとのギャップも感じながらの鑑賞でもあった。 日本の底辺から生み出されてくる、言わば生きる為の「やむなし稼業」として、 その道に進んでしまった過去の友人達が事実存在し、その対比的な映画鑑賞の視点は、 言われるところの娯楽映画では決してなかった。これはやはり育った環境のせいなのであろうか。
KG大学を目指して、ひたすら入試の為の勉強を続けた。KG大に潜り込めれば、正直、学部はどこでも良かったが、高校の担任だけでなく、自らもその能力に至っていない状況は承知していた。振り返れば、学生としてはとんでもなくひどい道を歩いていたかもしれない。最後の一年だけで10年間を取り返すのは不可能であり、おまけに「戦後ベビーブーム」の意味も理解していなかった。「大学は当然のこととして、行くものである」との常識は持っていたにも関わらず、そのための努力をして来なかったのだから、眼の前に来ている40倍、50倍の競争率をクリア出来る筈もない。今や死語ではあるが、4当5落(5時間睡眠では落ちるの意味)と言われた「受験戦争」である。教師はランクを2ランク落とせと、盛んに説得してくれたが、何故かそれならば就職と腹を括っていた。自ら「宝くじ受験」と銘打って、受験者が多い方が実力不明となり、自分にも当たる可能性があると前向きに考えた。結果はまず、テスト受験のK大から合格通知がきたのだが、「袖にする」と周りに豪語しつつ、内心してやったり。その後、KG大の「商」、「社会」、「文」と合格通知が来た。「法」に落ちた事で、ツキが味方してくれた「宝くじ合格」であったと、ここ一番の勝負運の強さには今も感謝している。沢山の仲間が能力はあったにも関わらず、宝くじにも当たらず大学を断念した。その無念さをバネに、団塊世代で鍛えられた実力を梃子に、みんな元気に生き抜いてきた。厳しい受験戦争であったが、そこで培われた経験こそが大きな価値を生み、学歴を超えて世代間競争を勝ち抜いて来た筈だ。言葉の是非は別にして、団塊世代という背景を恨んでいる人間はいないと思う。
「ガクヒー、ネアゲ−、ハンタイー!」入学式に晴れ晴れしく大学へ向かって歩んで行くと、前方からそんなアジテーションが聞こえてくる。満開の桜並木に包まれて、前方には、あの憧れたスパニッシュミッションスタイルの時計台(図書館)が見える。絵に描いたような光景にわくわくしながら校門まで辿り着くと、いわゆる立て看板がところ狭しと並ぶ、一分前に感じたものとは全く異質なアンバランスな光景が目に飛び込んできた。晴れの入学式が行われる講堂には、既に人が溢れ、主役である筈の自分が入れる場所は既になかった。完全に定員オーバーの入学者で、学校経営は成り立っていることを後で知ったが、だからこそ入学出来たのだろう。やっとの想いで辿り着いた大学生活に暗雲に立ち込めつつあったことに気づくのにはもう少し後になってからであった。
大学は既に、「学費値上げ反対」とやらで、荒廃しつつあった。テレビの事件記者に憧れ、新聞社への就職を漠然と意識する中で、新聞部への入部を考えていたのだが、部室前の立て看板の意味が「政治団体」としてしか理解出来ずに、マスコミ関連ならという事で急遽、放送総部、報道部に入部する事に変更した。このクラブには、他にアナウンス部、技術部、制作部などがあり、実に多様な人種がたむろするサークルであり、大学生活の大半をこのサークルで過ごし、その後の人格形成への大きな影響を受けることに繋がった。勉強は受験戦争を勝ち抜く為だけのものであったから、2〜3度授業には出たが、マスプロ教室に別段失望することもなかったし、図書館はきれいな佇まいだけで十分で、中に入る必要もなかった。多くの学生が同様であったと確信する。
さて、大学生活の大半を費やすことになる「"報道部"とは?」 なじみ薄いサークルであるだけに多少の解説を加えると、ラジオ放送のための学生向けニュースを集めて来て、記事に起こし、それをアナウンサーにプロデユースするという研究団体ということになる。ラジオ局で言う放送記者なのだが、当時の各学部学生自治会の動きを取材するぐらいが日常の活動範囲であり、たまに、学外で学生によるデモ行進があると聞けば、着いて行って収録を行う。作られた「録音構成」という作品は学内に流れはするが、聞こえる筈もなければ、聞く人もいない。年に一度、「放送祭」というイベントがある。これは文化祭、体育祭と同様の位置付けがあり、大きな製作予算が付き、作品を学生ホールで上演するため聴取者が存在する。そのための製作役が廻ってきた。1年生には、その役割を十分に理解が出来ないのが実情であるのに、断りもせず引き受けてしまい、改めてニュース取材に一生懸命、自治会廻りをすることにした。当時の学生自治会は、どこの大学でも全て政治活動の拠点であり、政治的ターゲットはアメリカのベトナム戦争反対である。関西での反対闘争のデモ取材をする中で、ある日、東京方面で大規模なデモがある事を知る。全学連が主催する砂川基地での全国規模の決起集会である。これに取材同行する事で、ある女性と運命の再会をする事となる。
アナウンス部のM君と新幹線に乗って東京に向かう中、名古屋から学生らしき数人が乗り込んできた。明らかに行き先は我々と同様、砂川行きである。いでたちが、当時の新幹線には似つかわしくなく、被りはしてないけど、ヘルメットを手持ちしたジーパン姿では、やはり違和感が漂う。そして、その中に知り合いを発見して、腰を抜かさんばかりに驚かされた。なんと、受験勉強のために泣く泣く別れることになったと前述した「K嬢」をその輪の中に発見したのだ。まさに初恋の女性との劇的再会となるのだが、シチュエーションに違和感があり過ぎた。声をかける間もなく彼女も気付いてくれ、一瞬のたじろぎの後、彼女はこう言った。「河田君、ちょうど良かった。東京駅に着いたら入場券を二枚買ってくれないかな。」いわゆる新幹線のキセル乗車依頼である。彼女の言い分は「権力への戦いに出向くのに乗車賃は必要ない」である。思えば高校時代、彼女が遠方通学で何度かキセル乗車で送っていった事があった。もちろん、当時の彼女は「キセル」など大反対であったのに、、、、、、、。
廻りを気にするあまり、声もかけられず、東京駅でやむなく入場券を手配した事は覚えているが、彼女の姿はその後、デモ隊の中でも遂に発見出来ず終いであった。大規模デモの取材の事など、どこかへ飛んでいってしまった。ただ、デモでもう一つ印象に残る情景は、リーダーとしてアジテーションしている、とても格好が良い男性がい事だ。何故か理由もなくK嬢の彼氏とダブらせて見ていたのが不思議だが、それが、歌手、加藤登紀子の旦那になった今は無き藤本氏であった事を後で知る。そのいでたちは、自分にも強い憧れの残像を残した。こうして、ろくに取材もせず帰ったのだが、何とかニュースドキュメントとして「放送祭」で発表せざるを得ない。苦肉の果てに考えた題名が良くなかった。確かナンセンスにも「はるかアメリカに叫ぶ」と付けたと記憶している。これが新聞総部の逆取材を受けていた事から、学内新聞でコテンパンに書かれたのだが、悔しいだけで彼らの主義、主張が正直なところ全く理解出来ないのだ。これらの経験と彼女の残像が「マルクス主義」や「唯物史観」との出会いとなり、その後の「悩みの元凶」と言える考える学生を創ってしまう事となっていく。
「健さん流」右翼的正義感が、学内自治会廻りの中で、当たり前のように徐々に左へ振れつつあった。書店で「マルクス」という著者の本を買い漁り、読み散らかしていくのだが、さっぱり本質は理解出来ないまま、心情的左派の色合いだけが強くなっていく。学内のムードも70年安保を控えて、いわゆる一般学生を巻き込みつつ、益々左傾化を強めつつあった。2年生の終わり頃、次の放送局、局長の選出の時期となる。既に、執行部は自治会からの突き上げもあり、方針的には各自治会協調路線を取っていく中で、局長選出は、先輩執行部は、当時未消化のままながら「マルクス主義」の論調を張っている自分を指名してきた。同学年の仲間と相談の上、これを受諾することになり、とりあえずの新執行部体制案を作って、選挙に向かう。問題は立候補制でない無記名選挙であった事から、シナリオが狂ってしまった。親友で新執行部として一緒に汗をかく予定の一人であるT君に票が流れ、彼が当選してしまう。考えれば当然であり、温厚な彼と、既にマスコミ論をかざして改革を主張する自分を比較すれば、彼が選ばれるのが民主主議というものだ。多くのプロアナウンサーを目指すサークル的部員にとっても、日頃のアナウンス練習が水泡に帰す可能性を秘めていたのだ。かといって、T君もそのまま局長を受けることは出来ないし、自分としても今更負けた選挙の後始末をしたくはない。先輩からは、部の体制維持の為、当初方針を貫くようにと強い要請は入るが、具体策はない。結局、執行部構成予定のM君を含めた3人で長い論議をした結果、「本当の男らしさは何か」を唯一のメジャーとして、恥ずかしながら自分が局長を引き受ける事となってしまうのだが、結果としてこの判断が、その後の間違いを大きくしてしまった。(そしてこの経験は後々の大きな判断基準ともなっていた。)
学内はストライキに突入していく。 学校当局は6総部、7自治会に対して事業予算を与えていたのだが、既に学内は機能不全となっていた。どちらへも対応出来る構えに見えた放送部が、全予算の執行権限を持つ事で、当時(1969年)の学内活動はかろうじてスタートするが、預かる側の責任は大変である。既に、論理的には放送部においても、学校当局とは全面対決方針である。体育会、応援部を除いて、各自治会はもちろん宗教総部までが、「統一方針に参画、全面無期限スト、ロックアウトも辞さず」の強行路線だ。わが放送部はと言えば、授業が中断する中で、アナウンス部を中心に部活動を楽しみ、プロになるための就職活動としてのハードな発声練習がこだまする、極めてアンバランスなものとなっていく。学内は全般的に騒然とした状況の中でも、青春を謳歌する学生達の、当時ならではの独特な環境が出来上がりつつあった。やがて夏休みに入り、各部活の主流は「夏合宿」となっていくのだが、我が部もこの合宿において、全面ストへの完全意思統一を図らねばならない。このまま推移していくと、理論上は留年、就職放棄までをも全員に決意させる事になる。「学生放送の理論的建前のみで進み続けるのか、執行部が総退陣して、サロン的クラブとして生き残りを図るのか」選択は「局長」に委ねられる。悩みぬいた挙句、唐突にも執行部総退陣を表明することとした。局長選挙時の民主的決断に戻る事しかない。合宿を打ち切り、影響を残す可能性のあるメンバーは、全員退部する事にしたが大混乱は続いた。
退部と同時に預かっている予算を、全学闘争委員会に上納する事にしたのだが、ある悪知恵が浮かんだ。今や時効と白状するが、わが執行部のお疲れ会の資金を、ちょろまかす作戦である。5名の道後温泉2泊分が差っ引かれて、残りの資金を闘争活動資金として闘争委員会に返却した。後味は良くなかったが、道後温泉の湯に浸りながら、それぞれが個人に戻って、自らの信ずるところに基づき個々に行動する事との結論になった。なぜか日大の「秋田明大全共闘委員長」に「高倉健」をダブらせながら憧れを抱いていた頃である。
1969年(昭和44年)、70年安保改定阻止に向けて、学生運動は大きな転換期を迎えていた。ほとんどの大学は機能麻痺状態となり、象徴としての「東大安田講堂事件」が、全国で同時発生的に展開されて行った。我が大学もそれなりに過激であった。
今思えば、1970年を前に、完全に学生運動の鎮圧に乗り出した大きな国家権力の前に、一般学生を巻き込んだ大衆運動の限界が来ていた。安田講堂事件のその日に、我が校にも機動隊がロックアウト解除に入ることが知らされ、プロの活動家(もちろんプロではなく純粋な革命思想家の意)と、心情左派的一般学生(当時その層は全体の70%程度ではなかったか)によって、機動隊乱入阻止の戦いが始まる。
徹夜で座り込む2000人程度の一般学生と、徹底抗戦の準備のため、コンクリートなどを持ち込んで籠城を準備する活動家。自分にとっても「人生最大の決断」を要する時であった。間違いなく刑務所送りを覚悟して、家族も、恋人も、全てを捨てて籠城側に廻らざるを得ない。プロではなく信念が固まっている訳でもないが、一般学生を盾にした事の責任の一旦は逃れられない。当日行動については、仲間の誰もが既に知らない。当時付き合っていた彼女(今の女房)にすら何も話していない。
この時、その後益々先鋭化する「プロ活動家」に大きな借金を作る事となってしまう。彼らはそんな心の動揺を見透かすように、籠城メンバーから自分を含めた十数人を外に出るように指令した。大義名分は「君たちの役割は一般学生を学外へ無事脱出させることだ。」と命令されたのだが、本来命令される理由は何もない。しかしその口調は、自分たちの揺れる気持ちを既に見透かしていたに違いない。脱出経路を示される中で、心からほっとした心境で走って行ったのを覚えている。運命が変わっていく。進路は体育会系の猛者たちに塞がれていたが、その役割に対する使命感というよりも、逃れ得た恐怖心からの開放は、いとも簡単に彼らのピケを打ち破り、N駅までみんなを誘導していった。そしてそのまま、逃げ出した負い目を気にしつつも、友人の下宿に辿り着くや、疲れと興奮の中、深い眠りに入ってしまった。
(後日談だが、KG大の籠城は安田講堂よりも激しく、陥落までに6時間以上も要した後、籠城者全員が逮捕された。我が友人たち(含む我が彼女)は、中にいる筈の自分を追いかけて(一人は泣き叫びながら)そのままN警察まで釈放を求めて行ってくれたとの事である。)
学内は何もなかったかの如く平和が戻り、大衆に裏切られた形の活動家はやむなく、より孤立を深め、先鋭化していく以外に道はなくなっていく。この日を境にして70年安保闘争と、大衆左翼運動は転げ落ちるように壊滅に向かった。超過激派を作り出す事によって、労働運動を含め、全ての論理破綻を結果として演出した「時の権力」のシナリオが、後の高度成長の日本を生み出したと言っても過言ではない。その副作用として「超過激派としての暴力集団」まで創出してしまう結果を計算出来ていたとすれば、大変な国家戦略であったとも言える。当時学生生活を送る多くの団塊の世代にとってのシンボル的事件は誰も語りたがらないが、「この時」であると確信する。
時は進み、卒業の時期が来る。大半の留年予定者をレポート提出で救い、その結果として、ほとんどの学生が卒業証書を手に入れる事が可能となった。その後の自分はと言うと、柄にもなく読書とアルバイトに没頭していた。これまで濫読してきた歴史書を読み直し、高橋和己全集を再読破し、大江健三郎にチャレンジしていったのだが、記憶の中には何故か何も残ってはいない。自己満足と、背伸びをし続けている自分が、消し去れずにいた。就職活動をする気も起こらない中、周りは騒ぎ出した。漠然とではあるが、米国への海外逃避を考えていた頃である。(小田実の「何でも見てやろう」の影響が残っていた。)
ある日、「就職するよ」といって、友人が「U洋行」という会社の募集要項を持って来た。「洋行」は「よう子」に通じるから受けてみようかな。(今の女房の名前が「ヨウコ」である)洋行なら海外へ行けるかも知れない。そんなノリであったが、受験者が500人も殺到する中、受験者の数が半分に減り、3分の1に残っていくと、勝気な一面が顔を出してくる。最終面接ではまじめな学生を気取り、見事に合格してしまったが、その日まで、この会社が「マジックインキ」で有名な事務機器メーカーである事すら知らずにいたのだから、誠にいい加減な体験就職となってしまった。悩みながらもアルバイトに精を出し、マージャン、パチンコはプロ級に成長し、デートもボーリング、映画、喫茶店、競馬場と青春を謳歌する、楽しくも堕落の学生生活が一方で存在していた事も忘れられない。おそらく団塊前後の学生にも共通項として、多くの同じような経験や逸話があり、その後の「フォーク文化」が生まれていったのだと思う。
大学生活4年間を通じて、最も時間を費やしたアルバイト経験に触れておきたい。
短期間ではあったのだが、S銀行経由で阪神競馬場でのあるバイト経験を思い出す。売上として集まる数億の現金を集計し、袋詰め、トランク詰めにしていく仕事であった。そこら中に転がる膨大な現金の束は、確かに「お金」であるのだが、単なる商品に見えてしまうから不思議である。財布の中にあった、たった1枚の千円札で馬券を買うところを見つかって、クビになってしまったが、馬主用馬券売り場では、馬主による100万円単位の馬券の買い方を認めて感動させられた。
(競馬場関係者は、アルバイトといえども馬券購入禁止であったので、クビはやむを得ない。)
長く、本業のように続けたアルバイトは、Sサービスという阪急電鉄専門の清掃会社であった。終電車が走り去った後、阪急各駅のホームの壁を清掃する仕事である。考えてみれば、使用する洗剤を硫酸を薄めて、アルバイトの我々が作るのであるから、今では考えられない危険性の高い仕事だ。たまに線路に降りて、いわゆる「モク拾い」の仕事が入る。この仕事には副収入が大きい。タバコと一緒に10円玉や100円玉が、結構拾えるのである。あんなに隙間から小銭が出てくるものかという程に大量に拾え、時にはバイト料より稼げるのであった。あの憧れの甲子園球場のゴミ清掃も面白かった。甲子園ではバイト後、球場内の風呂に入れるのが楽しみで、各選手のアンダーシャツやストッキングが干してあった。なぜかサイン入りシャツが数枚手元に残っていた記憶がある。ある日、当時のスーパースターである阪神の村山監督が、真夜中の風呂場に突然乱入して来た事があった。負けゲームの反省会でもやっていたのだろう。やっぱり彼の背中はやたらと大きく見えた。人気グループ「フォーリーブス」の公演会場整理の仕事では、若い女性ファンを平気で引っ張りまわして、身を挺して止めないと収拾がつかなかった。彼らの「ダミー」になって会場から出て行く仕事では、「騙されて群がるファン達」に申し訳ない気もしたものだ。
又、今も売られている明治製菓の「カール」の新製品発売デモンストレーションで、スーパーに派遣された時は、声を出すのが恥ずかしいので、その場を抜け出し、一日中サボって、パチンコをしていたのがバレ、大目玉を食らった事もある。(もちろんこの仕事も1日でクビになった。)
社会経験を積みながら、生活資金を稼ぐアルバイトが、当時の大学生活で最良の教師の役割を担ってくれていたかもしれない。
実は、未だに単位不足で卒業できない夢を良く見る。これも、団塊世代共通認識の恐怖感ではないだろうか。卒業式もなく、卒業アルバムもない。何故か卒業証書だけは存在するが、きっと団塊世代の多くは、本当の卒業は出来ないまま(実感のないまま)社会へ出て行った人が多かっただろう。唯一見ていたテレビドラマの「フーテンの寅さん」は、その後、映画の世界で大きく進化していく事となった。
書くことを躊躇っていたのだが、次の事もやはり事実なのだから書いておきたい。大学時代に憧れた友人が3人いた。残念ながらその3人とも今はこの世にいない。ご冥福を祈りつつその頃の素直な思い出を書いておきたい。
大学入学イコール放送部入部であった事は既に述べたが、入部して直ぐに、凄い人がいると感じたのが、当時アナウンス部長であった二年先輩の「Kさん」である。Kさんは「先天性低身長症」(であったと思う)で身長が1メーターそこそこしかなかったが、いつも学生服をキリリときめて、胸を張って颯爽と歩いておられた。スポーツ中継の実況放送のアナウンステクニックは、既にプロ級で、大学野球の「K-K」戦の際、録音取リに良く連れて行って頂いた。なんら臆する事なく人生を前向きに捉え、あらゆる相談に乗ってもらえるだけの度量を備えていて、誰からも愛される存在の先輩であり、自分にとっては、生まれて初めて出会う「尊敬する人」であった。卒業後、ある中小企業に就職され活躍されていた頃には、放送部の悩みから、就職の報告、退職の報告と、事ある毎に相談に伺っていたのに、東京へ転居した後、突然「訃報」が飛び込んできた。遂に何の事情も聞けないまま葬儀に参列するだけで、その後のお付き合いができなくなってしまったこと事に、今も納得出来てはいない。
もう一人は、そのKさんの1年後輩のNさんである。アナウンス部の所属であったが、前任の副局長というポストを担っておられた。麻雀の腕前がプロ級で相手にもされなかったが、草野球でも一流スター選手であった。しかし、実は彼の「男前さ」に男惚れするほど当時「格好良く」見えていたのだ。彼には映画俳優が似合うと勝手に決め込んで、あるオーデイションに内緒で応募したりしたのは、彼に「高倉健」を投影していたからだ。Nさんはその後、大手のS運輸に就職され、若くして総務部長となり、出世街道驀進中と聞いていたのだが、やはり突然の急死の知らせを受ける事となってしまった。いわゆる過労死ではなかったかと思う。
そして、ほぼ一緒に放送部に入部したT君も亡くなった。彼もアナウンス部所属であったが当時から垢抜けた「お坊ちゃま大学生」として密かに彼の環境に、憧れの想いがあった。早々に彼女を作り、ギター片手にフォークソングを歌い、マイカーのべレットGTを乗り回していた。いわゆる初めて出会った理想の大学生に憧れを感じていたのだ。プロのアナウンサーになる為に、クラブ以外にも「塾通い」をして、見事NHKに就職した我々のエリート代表であった。いつか紅白の司会者で出てくる彼を夢見ながら、皆で応援しいたのに、京都で盛大な同窓会を開いて間もなく彼も逝ってしまった。あの時、彼は既にその事を知っていたのかもしれない。「そうであればもう少し皆も話が聞きたかったのに、君の就職のために我々は退部までして組織維持を計ったのに」と恨み言の一つも言いたくなるくらい残念な知らせであった。彼が歌うP.P.M の「500マイルも離れて」 「ウイ シャル オーバー カム」、ボブ ディランの「風に吹かれて」、ビートルズの「イエスタデイ」をもう一度聴いてみたい。
大学で出会った「一生の親友」と呼べる仲間が数人いる。もちろん今も親しく付き合っているが、不思議にみんなこの「亡くなられた3人」に対する思いは共通している。それは偶然にも、我々が学生時代に「男として恋し、影響を受けた人たち」であり、彼らの分まで頑張って生きていく必要がある。
「こんにちは こんにちは 世界の 国から 〜 1970年よ こんにちは・・・・・・・・・」
三波春夫のやけに明るい歌声が耳に残っている。1970年(昭和45年)、大阪万国博覧会が開催された年の3月31日、大阪発東京行きの深夜バスで、就職先のU株式会社へ向かう。晴れの門出だから「新幹線のグリーン」とならならなかったのは、未だに心情的には卒業出来ていない証左であった。
そして4月1日の朝、東京駅内の温泉で疲れを癒した後、新聞に目を通していてあの大事件を目にしたのである。いわゆる「日航よど号ハイジャック事件」。事もあろうに、そのメンバーの一人A君は、高校の同級生で、ラグビー部のキャプテンを務めていた人物ではないか。高校時代以降、接点はなかったが、文武両道に優れ、理想の高校生として、むしろ羨望のまなざしで彼を見つめていた。一方は、社会への抵抗心を多少でもごまかすために深夜バスを利用して就職、一方は全てを捨てて北朝鮮へ。この落差を埋めるためには、その後、長い時間を要することになる。結果としては、初めて就職した会社を僅か9ヶ月、その年の12月には退職する事になったのであるが、この事件がその理由の一つであったのかもしれない。
今から考えると、この会社(Y社)には本当にお世話になった事に、40年近くたった今頃になって気付く。9ヶ月間しか在籍しない中で、その4ヶ月間が集合研修であった。特に、生意気学生を鍛え直すためには、精神的スパルタ教育が徹底され、講義は早くても夜11時まで、それから「集団解決の宿題が出る〜朝一番で発表する」の繰り返し。日曜日以外は外出も禁止、違反すると解雇も辞さずのおふれが廻っている。まだ若い、増してや団塊世代集団が、我慢出来るわけもない。大きなリスクを承知で、講義終了後は、毎晩のように塀を乗り越えて飲み屋に通うようになる。
実は一滴も飲めない自分ではあるが、これが楽しくて仕様がない。宿題はみんなで論議するから難しくなる。基本的には、「自分が発表を引き受けるから」という事で、全員了解の上、毎晩のように真夜中の脱走が続く。当然、いつかはばれる事になる。同クラス6名が正座させられて、もしや全員解雇かという恐怖が走る。もちろん、そこまでの覚悟が出来て行動していた者はいないが、リーダーはどう考えても自分である。首謀者として抗弁するしかない。その時、咄嗟に出てきた言葉はこうだ。「会社の作った研修マニュアルを見せてもらいたい。基本的人権が抑圧されている、こんなマニュアルを会社として示しているとは思えない。従って、ここで指導をしている講師にも問題がないか、確認させてもらいたい。」と開き直ったのだ。理屈よりも脅しであったかもしれない。結論は、今後二度と外出をしないという事で、一見落着。お咎めなしとなったのだが、自らの社会人としての不適正を、内心強く感じる後味の悪さを残すものとなっってしまった。
この会社では、かつて組合活動が活発で、ストが頻繁に起こった時代があったらしい。「組合が2つ存在する」ところに、微かにその面影が残っていた。我々は当然、第2組合所属である。第一組合員がちらほらと見え隠れするが、窓際で静かに本を読んでいる人達であった。いわゆる「負け組」の惨めさを見たようにも思え、自分の将来とダブって見えて、その後も全ての組合活動から遠ざかる卑怯な自分が出来上がってしまった。とにかく研修はハードであったが、当時の最新の研修カリキュラムを叩き込まれたことが、その後の40年間に本当に有効であったと今更ながら感じる。研修泥棒を恥じもせず、その年の12月、さしたる理由もなく退職してしまう。自分なりにこじつけた内なる理由は「この会社の人材不足による将来性の無さ」であったのだから、その生意気さに、今考えると驚くほかはない。
「70年安保反対」の声は完全にかき消され、日本初の万博は大成功、そしてクライマックスとして「三島由紀夫割腹自殺事件」で、当時の世論は完全に機能麻痺の状況となった。この年、政治的に左右両派が逆転していく分岐点であったと思われる。右側は三島由紀夫を単独で死なせ、左側はテロと自己批判を容認する極左勢力として、見捨てられていったのだ。そして自らも、時を同じくして、リスタートをする道を選んだ。三島事件は自分にも、「何が正しいか」を見失うほどのショックを与えていた。
次の仕事の当てがあった訳ではない。本当の理由は、営業マンからの逃避であったと後で思い直した。そこから「逃げ出した」という敗北感は大きかったが、明らかに向いていないのも事実であった。その頃、相談に行った友人が、前述の今は無き親友A君、高校野球の仲間である。彼はその後(落第後)、苦労しながらも「インチキ不動産屋」で営業の真髄を学んでいた。彼は、水道の通っていない住宅(予定)地を、平気で何軒も売り歩いていた。但し彼は「売った人の家の前は二度と通れない」と言う。彼いわく、「営業力とは魔法のようなものであり、空気でも売れる」と真剣に解いてくれるのだった。実践にも付いて行った。そしてその営業力には舌を巻くほかなかった。しかし、まだ正義派だった自分としては納得がいかない。
「だまし売りは良くないよ。そんな会社は辞めるべきだ。一緒に何か別の仕事を考えようよ。」と言いだした自分のその一言で、彼は、当時の給料50万を捨ててしまった。売るものを考える役と、それを売る役だけは決まった。
実はもう一つ気付いている事があった。いずれにせよ売り続けていくと、やがて体力の限界が来る。お互い一生営業マンではつまらない。これは、前職をやめる時の大きな理由の一つでもあった。事務機器会社では、先輩を見ても同じような営業を永遠に続けている(ように思えた)。これがたまらなく嫌だったのだ。一度売れば、後は自動的に収入が増えていく商売はないか。元手はない。大好きな純喫茶で考えを巡らせている時、目に入った「一枚のパネル」がヒントになった。それは、当時流行りかけていたスティーブ・マックイーンのポスターパネルである。「これだ。どこの店でも安上がりインテリアとして使えるが、1ヶ月もすれば飽きられてしまう。これを大量に安く仕入れてレンタルで交換すれば、楽に継続的収入につながる。」安く仕入れる為には、もう一つ工夫が要った。パネルとポスターをバラバラに仕入れればいい。それから製作の工夫が始まった。霧を吹けばきれいに出来る、ビニールを上から掛ければ長持ちする。
二人で決めた約束があった。「夜のうちに製作できたものは、翌日必ず売り切ろう」である。その売り手の役割はA君だ。自分はただ後ろから着いて行くだけ、彼は見事にその役割をやり切ってくれた。自分はというと、生来大好きであった喫茶店なのに、営業の為には、店の前まで行くと足が止まってしまう。彼はかまわず中へ入って商談をまとめてくる。出てきた彼に「お疲れ」と言うと、彼は笑顔で「一丁オウライ」と答えてくれた。自分の役割は、より高度な商品と利益率のアップ戦略構築でしかない。アイデアは現場にあり、ある飲み屋で、電光フィルムで「見たことのない香港の夜景」が輝く額縁を発見した。早速製造元を調べると、フィルムは100種類。仕入れ価格は9800円とわかった。設置費9800円で元を回収して、月あたり1000円のレンタル料、これまでの収益500円が倍増する。それに製作する手間が省ける。しかし一つ難点がある。簡単とはいえ電気工事が伴うのだ。
実践主義で行こうと、売ることを優先、早速商品を変更する。以前よりずっと売りやすい。配線工事も「習うより慣れろ」でどんどん上手くなる。今度のノルマは製作の手間がないのだから、1日100件の飛び込み営業を二人でノルマ化した。いつも2人で歩いていたのだが、プレーヤーがいつも二人一緒は合理的ではない。自然に嫌な営業をやらざるを得なくなってしまう。それでも効率アップも伴って、いつしか神戸の喫茶店は二人で廻り尽くしてしまっていた。成果はと言うと、1年間で約100店の開拓(契約)が完了していた。黙って月に10万の固定収入になる。神戸だけではマーケットサイズは限界である。大阪まで商圏を広げるか、夜のスナックをターゲットにするか。新たな商品を開発するか、ここで行き詰まってしまった。考える役である自分の能力の限界だ。未だに馴染まない営業をこのまま続けるしか、自分の存在感はなくなる。一方、彼の営業力は月10万の固定収入をベースにすれば、如何ようにも発展する。二人の夢は20代で社長になって、ベンツを乗り回せるようになりたいと思っていたのだが、自分には金も人脈も、営業力すらない。二人で頑張って、それでもカローラ1台が手に入っていた。だがもう一度、お互いに別の道を歩まなければ、彼に「おんぶにだっこ」の人生になる。
一方、結婚話が急速に進展していた。彼女の両親は「相手は一流大学を出て、大商社に安定就職している」と未だに思っているらしい。実際には既に、今で言うフリーターでしかない。急ぎ安定就職を探さなければ、結婚も難しいことくらいは想像がつく。もう一度就職を考えてみよう。今度は営業職ではなく、メーカーがいい。それも一度、汗と油にまみれるような工場勤務をしてみたい。彼には「俺は学歴で就職が可能だから、お前は今の権益をベースにひとり立ちしてくれ」と説得した。彼は納得して、二人で稼いだカローラを自分に譲ってくれた。就職先は、兵庫県の片田舎の繊維工場で住み込みの工員であるが,一から出直すには文句のない条件であった。彼に言った「学歴」とやらも一度捨てて、勝負をしてみたいとも真剣に考えていたのだ。
当時の繊維メーカーの労働条件は、まだまだ厳しいものがあった。特に女性の職場環境としては、機織りの仕事は劣悪であり、出産を控えてもなお、まだ頑張る工員の姿などを垣間見て、あの細井和喜蔵の「女工哀史」にも似た日本の底辺を感じる日々を経験した。自分も、毎日が繰り返しだけの単純労働に苦しむ毎日となっていた。 1年があっという間に過ぎ去った頃、事務所に呼ばれた。コンピューターを導入するので、その準備のために「事務所勤務に変わってくれ」との事である。実は前職のU社での研修で、コンピューターの基礎を勉強した経験があったが、相性的には自分に合わないものと決めていたのだが。(U社での最後の仕事は、事務用コンピューターのはしりである「まがい物のような事務機」の販売に対して大いに矛盾を感じていた。その後も、コンピューターには苦労をさせられる事になる。)新米プログラマーとしての最初のプログラム製作は、その会社の給与計算システムで、当時は超小型コンピューターといえども大きな専用室と空調管理が必要であった。今のパソコンレベル以下の代物にもかかわらず、専任が三人張り付いて大騒ぎしていたのだから驚く。この時、見てしまった製作物が次の転職の大きな動機になってしまうのだが、この事は後でもう一度触れる。一応の役割を終えた後、この企業の営業の中心幹部が病で倒れたとの事で、急遽、あの嫌な営業職に転出する事になってしまう。運命は不思議に変わっていくのだった。
メーカーの営業は、全国の主要な一次問屋に対する販売なので、直接営業とは異質の物であったが、東京、名古屋、大阪と、工場で生産した全ての製品を、唯一の営業マンとして、全国を一人で売り歩いた。繊維のプライスは、繊維相場に大きく影響を受け、製造原価も日替わりメニューである。それに、相手の経済的信用力を加味して販売していくのだが、まさに相場と駆け引きの商売であった。在庫量を隠しつつ、先物まで売って行く事もあれば、膨大な在庫を持ちながらも売り惜しみをする事も必要である。企業の違いもさることながら、地域性の違いには驚かされた。ケチの大阪とよく言われるが、合理主義の名古屋が、商売上、最も厳しい地域であるとの信念は今も変わらない。丸2日間、目前に現金を置かれて、値切りの為に監禁状態なんていう事があった。大阪の船場を越えて、名古屋の長者町が日本ビジネスの原点ではないかと思う。営業は、名古屋を経験して初めて一人前ではないだろうか。
テレビで見ていた「喜劇・フーテンの寅さん」が映画になった。半信半疑で見に行ったこの映画に、完全にはまっていった頃である。何故か喜劇を見て、いつも「涙して」劇場を出ることになったのは「寅さん」の持つ人間本来のリアリティの悲しさであり、自分の育った境遇との見事な一致点が、そこに繰り広げられるからであったのだと思う。その後の人生にも大きく影響することになったこの映画は、寅さんがなくなるまで、ほぼ欠かさず見る唯一の映画となる。
「あなたはもう 忘れたかしら 赤い手拭 マフラーにして 二人で行った 横丁の風呂屋
・・・・・・・・若かったあの頃 何も怖くなかった ただあなたの 優しさが 怖かった」
かぐや姫の「神田川」は、冒頭で記した「アカシヤの雨が止む時」に繋がる当時の学生時代を象徴する 歌詞とメロディで大ヒットした。一人暮らしで毎日放送「ヤングタウン」で「谷村新司」と出会った頃だった。
2度目の就職をした秋に結婚した。と言うよりも、結婚の為に再就職せざるを得なかったのかもしれない。
1972年、25歳になったが、当時では早い方でもない。この年から「ニューファミリー」の登場となっている事でも解る。 結婚式は、当時ではまだ異例であった「会費制」として、学生時代の友人数人に実行委員会を組織してもらった。 当然、式を挙げるだけの金の余裕が無かったのだ。
委員会への注文は「出来れば、会場費に加えて新婚旅行代も浮かせてほしい。行き先は会場を含めて、一任するから」と、 勝手放題な依頼の結果、なんと150人の大パーティーとなってしまった。 タレント性の極めて高い5人の委員が会場班、進行班、旅行班などに分かれてプロデユースしてくれたのはいいが、 旅行の行き先が、当日その日までマル秘扱いにされたのには困ってしまった。 海外はありえないとしても、暑い先か、寒い先かも教えてくれない。新婚初夜の泊まり先すら判らないまま、当日を迎えた。
会場だけは一流の宝塚ホテル。おそらく予約は100人以下であったに違いない。 冒頭から、ホテル側からはクレームの嵐である。まず食べるものが、パーティーが始まって30分も経たずに無くなってしまう。 追加注文はしない。当時は、2時間コースで終わるのがお決まりだったが、出演者が多数で1時間近く引っ張ってもなかなか終わらない。 ホテル側の苦情に対して、「こちらは一生に一度の舞台、やりきるしかないんだ」と答えてしまうプロデューサー。 前代未聞の結婚披露パーティーに、新婦側の親族はさぞたまげてしまったであろう。 新婦側には当日の進行については、説明すらしていなかったので、終わった後、とにかくお詫びに上がった事を覚えている。
それでも一応パーティーは大成功、出席者の皆さんも面白かったとの評判になり、 その後の後輩たちの結婚式にも大いに参考になった筈である。ちなみに新婚旅行は「能登半島」と、 無難な選択にしてくれたのだが、初夜のホテルは、名古屋駅前のシテイホテルで、到着が24時を廻っていた。 何も食べてない二人は、とにかく近くの屋台のラーメン屋を探し回って、その日は「おしまい」、 本当に疲れ切った、長い長い結婚式であった。
神戸の鈴蘭台に、いわゆる文化住宅を借りて、ニューファミリーの生活が始まった。 愛車のカローラで1時間かけて通勤する毎日であったが、まだ電話は引けなかった頃である。
ある日、帰宅して食事を済ましたところに「河田さん、電報です」と玄関から声がした。
「チチ シス スグカエレ」と書かれてあった。慌てて実家まで帰ったが、そこに親父の遺体はなかった。
出張帰りの名古屋の新幹線で倒れ、そのまま名古屋駅で死亡したと言う。事情は誰もわからない。 とにかく長兄と名古屋まで車を飛ばす事として、とるものもとりあえず、現地へ向かったのであるが、 到着は既に真夜中の12時を過ぎていた。
駅前の中村署で遺体を確認、兄が調書を作成する間、朝まで安置所で親父と二人きりで過ごすこととなった。 真冬の警察の安置所は凍えるような寒さであったが、何故か親父が寒くないかとやたらに気にかかったことを記憶している。 兄は、単純な病死である事に同意し、遺体解剖もせず、引き取ることにしたようで、 そのまま名古屋市内の斎場に移送する事となった。 死因は、車中での脳溢血という事であったが、誰に聞いたのか思い出せないでいるのだが、 死ぬ前の親父は、口から泡を吹きながら大いびきをかいていて、名古屋駅で下ろされたが病院の手配等はされず、 そのまま駅構内で死亡確認されたとの事であった。 未だに病院手当てが無理だったのか、疑問を抱いたままである。
葬儀は名古屋で密葬する事とした。親父の関係者は皆無であったが、息子たち4人がサラリーマンであった為、 花輪の数が膨大になり、あたかもヤクザの葬儀ではないかと見違えるほどであった。 花輪の数と順序で兄弟喧嘩が始まる始末である。とにかく親父の死を悼む余裕など全くないままの、 慌ただしいだけの葬儀となってしまった。 きっと親父としてはこの息子たちによる、派手な葬式を自分で直接見てみたかったのではないだろうか。 そんな親ばかそのものの親父であった。
その後も騒動は続く。親父がどこで何をしていたかを誰も知らない。 とにかく船会社の真似事の仕事のために金策に走回り、東京からの帰り道であったらしい。 借金額は不明なれど、相当の額に及ぶであろう。兄は若干の個人補償がある。 自分も親父に勝手に実印を作られて、プレゼントされた覚えがある事から、多少の補償債務が来るかもしれない。 とにかく名古屋で荼毘に付した後、遺骨を抱いて神戸に帰ったその足で、家族全員で裁判所へ行き、 相続放棄の手続きだけは済ませた。 これによって、家族はその後も仲良く付き合いが出来ている。 考えれば、親父は苦労しながらも、戦後ドサクサの最中にも関わらず、息子4人を大学まで行かせたのだから大したものだったと、 今頃気付くのでは遅過ぎる。ただ兄弟誰もがその事にもまして、 「親父には苦労させられた」という想いの方がなぜか強かったのは、考えれば不思議なことなのだが事実である。
司馬遼太郎の「竜馬が行く」に入り込んでいく頃であった。 近代日本の最大の功労者として、それまでの織田信長を超えて、坂本竜馬が自分の持つ理想の人物像としての 価値観となっていったのは、紛れも無くこの大作のためであろう。 その後、沢山の竜馬像を追い求めたが、司馬遼太郎を越える竜馬像は発見されず、 司馬遼太郎が最大の作家として自らの中に君臨していった。
(その後生まれた次男坊の名前が「竜弥」であるのは、当然ここから来ているのだが、 息子にこの小説を勧めても、見向きもしないのはどういう時代なのだろう)
やっと自分に独立心が強く芽生えてきていた。自らの家族を中心に、 これを守り育てる為の生活設計を考え出していた。再就職をして4年が経過、子供は男二人の4人家族。 共稼ぎは当時の心情としては、どんなに貧乏であったとしてもあり得なかった。 会社の給料は、30年勤め上げた役員さんの給料まで知っている。(給与計算プログラムを作ったのだから)
ここから又偶然の出来事が続いてしまう。
保険会社に就職した大学の3年後輩のY君の給与を、偶然にも見てしまったのである。 そしてこれまた本当に偶然にも、その彼の会社の「中途採用」募集広告が目に飛び込んできた。 彼の給与はその頃で、自分の1.5倍を超え、その時所属した会社の役員給与にも匹敵する額であった。 漠然と将来に不安を感じていたが、いつかは独立も夢見ていた頃である。 繊維会社では、優秀な人たちが大勢黙々と働いていたが、田舎の事でもあり、みんな実家に田んぼか畑を持っていた。 だから地元でしか働けない人が多い。このままでは子供たちを大学まで行かせることさえ出来ないかもしれない。
後先も考えずに辞表を出し、D保険会社の中途採用に応募していた。採用が決まってからという計算は出来なかった。 もちろん、時の上司である専務(オーナーの弟)から猛烈な慰留、説得を頂いた。 その時の説得話法は今も忘れられない。 「河田君、最後にお願いがある。経営者として君を諦めるために、一つだけ注文を出してもらいたい。 その注文が受けられない時に、君を諦めたい。」と言ってもらったのだ。正直頭の中に様々な空想的要求がよぎった。 「2年間の海外留学、年収1000万円の保証、マイホームの購入・・・」などなど。 しかし全て呑み込んで要求は出さなかった。どんな要求でも、もし受け入れられたらという、 極めて不遜で生意気な動機であったけど、OKが怖かったのは事実だ。
専務さんに一つだけ言ってしまった。 「中小企業の限界は、社員の処遇について超えられない制度が出来上がっていることです。 優秀人材については、その人材を確保できる給与体系が必要ではないでしょうか。 もし優秀で価値があれば、社長の給与をも抜ける、そんな給与体系が中小企業にも工場にも必要です。」 もちろん、その会社の現状も知っていたし、みんなが薄給であっても経営状況はぎりぎりの状態でもあったから、 無理な注文ではあったが「最低限の先行投資ができないと企業は飛躍していけない」という思いは強かった。 もし中小企業の処遇が、その人材の優秀さによって大企業と変わらなければ、 きっと大企業よりずっと魅力的な職場であるだろうと今でも思うのだが?。 若干28歳の若造が経営者に口にすることではないのが常識と今なら解る。
D保険会社の入社が決まらない中、引継ぎだけは進めていった。 もし採用されなかった時の事は全く頭に無かったが、考えたらより安定を求めての転職であったのに、 最も無謀な賭けでもあった。しかし、採用されたら自分の最後の職場として 「どんなに辛くてもサラリーマンのプロとして、その道を全うしよう」との覚悟だけは強く決意していた。 もし不採用になったら、(今から考えると奇跡的採用であったのだが)もう一度、 今度は一人で起業してみようと思っていたのだから、「家族のため」とは言い訳でしかなく、 何の計画性もない無責任極まりない決断でもあった。
1976年(昭和51年)、日本国総理大臣〜田中角栄が「ロッキード事件」で逮捕された年の7月15日、無事D保険会社での再就職のスタートを切った。たった15人の中途採用者のために、通常の新人研修と変わらない立派な研修が1ヶ月半続いた。一日でも速く戦力化を〜という、会社の思惑が中途半端な「15日採用」であった筈だが、当時の保険会社の定時退社時刻は4時半であり、しっかりとその時間には終わってくれる。以前の「U洋行」の猛烈研修とはあまりにも違いすぎる。研修に来てくれる講師陣も素晴らしい。たちまちこの会社の虜になってしまった。研修というものの大事さも、その後ではあるが、痛感することになった。要は研修の中身もさることながら、仕事をしていくためのモラルの構築である。講師に来られる先輩社員の皆さんは愛社精神に富み、人柄に余裕がある。当時の人事政策が良かったのであろうが、一生を捧げるに十分なロイヤリテイを生み出してくれた。(当時は正直甘すぎないか、2週間で済ませられる研修ではないかとも思っていたが、まだまだ生意気さが消えてはいなかった。)
研修を終えて、営業担当者として練馬支店というところに赴任が決まった。考えれば28年間神戸を離れたことがない中、敢えて赴任希望に首都圏を強く希望していたところ、会社は、横浜の一等地の社宅に3DKのマンションを手当てしてくれた。全てが希望通りの新たな船出に、落とし穴はないものかと疑いつつ、中途のキャリアまでをも給料に配慮された手厚い対応で緊張感に震えていた。もちろん不安が的中した事もある。たとえば、家族揃って練馬支店の下見に行って、偶然入ったうどん屋では、黒いしょうゆ色の出汁に、夫婦で顔を見合わせながら、口をつけずに出て行った事。初赴任では、すぐに机、椅子の手当てはされておらず、しばらくの間、用務員さんと机を共有させられた事。当面は見習いであり、年をとった新入社員を歓迎するほど、現場には甘えた余裕などなかった事など、それら全てを仕事のための糧として消化していった。とにかくプロのサラリーマンとして、貰う給料に見合う以上の仕事が出来ることを第一目標に頑張るのみである。(プロのサラリーマンの定義は、漠然と出はあるが、プロ野球選手の契約と年俸性を意識していた。阪神に入った「谷村」が大学の同学部であった。)
5年間「1時間40分」をかけて通勤した訳だが、この間、帰り道にあるライバル会社のT火災の明かりが点いているのを見た記憶がない。 24時06分渋谷発の最終電車までが勤務時間と考えた。それでも「仕事の中身は給料に見合わない」との、自分の働き方への不満は消えなかった。護送船団といわれる金融機関の処遇を含めた居心地の良さは、中途入社の人間でなければ気付かなったであろうが、こんないい環境がどれほど続いてくれるのかと不安でもあり、定年まで続いてくれる事を祈っていた。(そして結果は退職まで、ほぼ続いてくれた。)
入社3年目の32歳の頃、45年入社組み(卒業同期、入社後9年目)の係長が生まれた。 4年目でその大半が係長に昇進した。時の支店長が、その発表があった当日の夜中に電話があり「とにかく出て来い」という。何事かと思って駆けつけると、既に十分酔っ払っていた上司は、「河田君、君の力を評価できないこんな会社は速く見切りをつけろ。精一杯推薦したが通らなかった。申し訳ない」と一人で自棄酒を飲んでいた。(実はその前の年も推薦を上げてくれていた事は知っていた)酒の飲めない自分は一生懸命その上司を慰めて、ご自宅まで送り届けたのだが、やっとみんなに追いついたと正直ほっとしたと同時に、改めて自分に宿題を課したのを覚えている。評価の基準は、これまで通り「自分の給与を自分の働きが上回ったと納得するまで頑張ろう。プロサラリーマンとしての自己査定だけで勝負していこう」「中途採用のハンデは克服出来ないだろうから、仕事の中身の改善を自らに課して、時間でなく効率化と生産性を中心に、やり方を工夫するようにしよう」と、再度自らに誓った。
最も効率的な営業方法として、当時超積極推進していた営業施策に、代理店研修生の採用制度があった。この制度には人一倍の思いがあったのである。それは以前の苦い営業経験から来るもので、この制度に心底惚れていたのは、おそらく自分独特の感性があったのだと思う。損害保険会社の営業とは、販売店としての代理店への督励及び販売指導がその主な業務であり、言わば間接営業と言われるものである。
中でも新戦力構築の為に、当時最も力を入れて推進していた制度として、代理店研修生採用というものがあった。金がなく、学歴もない人でも、在庫を持たず、貸し倒れリスクも無い保険代理店事業を、3年間保障付きで社員として、やれるのだ。自分が営業で歩きまわっていたあの頃の努力をこの制度で続けていたなら、多分「一生の食い扶持」も稼げたであろうという経験値が大きく頭の中で計算されていた。
この思い込みに近い信念だけは今も変わらない。「あの苦労を二人で5年も続けていたら、きっとサラリーマンでどんなに頑張っても得られない収入を手にしていたであろう」との確信に似たものである。意欲さえあれば誰でも成功させることができるというこの制度に対する自信は、候補者を見つけ出しさえすれば、騙してでも研修社員として入社させられるだけの説得力を持っていたに違いない。(そして実際に大量採用を実践して大きな成果を挙げた。)
今でも、その後の自分のサラリーマン人生を支えてくれたものの一番は、彼ら(研修社員)の頑張りの賜物と考えている。当時、自動車整備工場という兼業代理店を中心に担当していたのだが、その仕事の中心は自賠責保険の集金業務であり、別に自分でなくとも誰でも出来る業務としか思えなかった。やがて、会社は土曜日が半ドンから休日に変わった。彼ら研修社員には時間が足りなくなる。やむなく自分にも土曜出社を課さざるを得ない。彼らも一生を賭けているのだから、騙してこの業界に引っ張り込んだ者としては、勝手に休みを増やす訳にはいかない。
この頃、会社はこの制度での彼らの成長性に疑問を感じていたようで、研修生育成の為にトレーニングセンターなるものを創った。現場を持たないトレーナー制度など意味がない。育成の責任は机上論では取れない。まだ平社員であったが、大量に採用してしまった自分としては、この件だけは譲れない。練馬だけはこの制度を拒否したいと上司に直談判した。この頃のこの会社のいいところは、こんな我が儘でも、理が通っていれば対応してくれたことだ。時の本部担当課長と担当役員までもが、一社員の自分のために説得に来てくれたのだ当然大感激したのだが、言い分だけは通さなくてはならない。この制度は「土曜日休み」では成り立たないと思い、出社して指導している事、トレーニングセンターまで行く時間的余裕は彼らにはない事などを主張し、行かせるのなら8時出社にしてもらいたい。夕礼だけは所属店でやらせてもらいたい、などの条件を呑んで頂いた。そして研修生には、無駄になる事を承知で「トレーニングセンター」まで通ってもらいたいと説得して、一件落着となった。
その後、やはり問題は起こった。トレーナーへの不満から、各店から寄せ集められた研修生が挙って集団離脱を企てているとの情報が入ってきた。この時こそ、練馬支店の研修生は揃ってこの裏切り的行動を止めさせるように彼らに指示を出した。本当は一番不満を持っていた連中が、見事に組織人としてのモラルを理解してくれ、優等生の対応をしてくれたのだ。練馬支店の成績は大いに伸張し、みんなで日本一の支店にしようと張り切っていた。支店長以下、仲間のチームワークも良かった。練馬では3人の支店長に仕えたが、タイプは違え、社員の個性を伸ばしてくれるすばらしい上司に恵まれたと思う。
かくして入社5年目の春、33歳で見事に係長に昇格した。そしてその後、異変が起こった。 6月に新任係長研修を受けていたその最終日、「これからの練馬支店での抱負」を作文していた時、呼び出しを受ける。どんな失敗をしでかしたのかと思いを巡らしながら研修課長のところへ行くと、転勤辞令だという。「港支社長」だと言われたように思ったが、混乱して「神戸の港ですか」と訳の解らない事を言ってしまったのを良く覚えている。港支社は東京の港区を担当する立派な支社である。過去に係長のまま支社長に昇進した事例がなくはない事は知ってはいたが、研修すら終わっていない自分に来る筈のない辞令だ。ましてや研修所でのことであって間違いは起こりやすい。しかしどうも間違いではないらしい。そこからの記憶が切れてしまっているのは無理もないのだが、上司(練馬支店長)にどう連絡したのか、上司は既に知っていたのか、研修は続けたのか、全く思い出せない。
港支社は3年間であったが、最も充実したサラリーマン時代をすごした黄金の日々であった。毎日がドラマであり、書き出すと限りがないほどの経験を積み上げることが出来た。とにかく33歳で一国一城の主である。たった4人、それも営業担当者は一人しかいない店ではあったが、名刺には店の格付けなど書かれていない。顧客が全てである事を教えてもらったのは、肩書きの最も有効な先は「取引先としての代理店」ではなく「その先にいる顧客」であり、直接営業が営業の原点であるという結論だ。どこへ行っても風体と肩書きを見つめ直して、感心してくれるのである。生保社の支社長といえばすでに運転手つきの役員クラスの待遇であり、顧客はその生保の支社長と同格においてくれるらしい。平気で勘違いしてもらいながら商談を進める。当然金融機関としての武器として、融資営業が必要になってくる。その頃の損保社の現場においてはまだ、融資が営業の武器として認知されてはいなかった。
時代はバブル前夜でもあった。社員数を増やすためには、研修生の採用を増やせば一石二鳥であり、得意分野だ。問題は、支社といえば格好は良いが、店舗が電気屋さんの二階で手狭な事くらいだったが、これを逆手にとって店の拡大、移転も勝ち取った。生意気盛りの新米支社長の考えた悪知恵は、当時も積極推進策をとっていた研修生採用が、店のキャパ不足から不可能になる事を本社不動産部に訴える事であった。「港支社では座る場所も無く、研修生の採用をさせないよう営業推進部に掛け合ってくれ」という不動産部では出来るはずも無い、理不尽な要望であった。営業最優先の会社である事は、お互いに百も承知の掛け合いである。こんな洒落の通る会社であったからこそ、働き甲斐があるといえるのだ。
まんまと広い新店舗を勝ち得て、お披露目のパーティーを行う事となる。従来、お披露目には取引代理店をご招待して、役員が挨拶する事というのが損保の決まり相場となっていたが、前述の顧客主義をベースに新しい店造りも考えていた。これまでは「一階に代理店用駐車場、二階が損害調査、三階が営業店」というのが一般的店舗とされていたものを、地下に駐車場、一階に営業店舗として、地域に開かれた営業店舗との謳い文句で、2階は会議室兼市民への開放スペースと変更した。そして代理店にも了解を取り付け、お披露目は顧客向け講演会に変更、研修生の飛び込み営業の為のツールにもなるように仕掛けてみた。当然講師は魅力ある「時の人」でなければならない。2回に分けて、どちらも満員(100名で満杯)にしなければならない。
おそらくこれが「損保業界初」の営業店による顧客向けセミナーであったとおもう。(今では当たり前ではあるが、顧客への直接サービスの考え方は業界にはまだ存在していなかった)失敗は許されないが、講師料で準備出来る金額はたかがしれている。そんな条件で、一人は講演家の「田中真澄氏」とした。彼の講演は以前に聴講しており、体験上、客さえ入れば喜ばれることに100%の自信があった。研修生を中心に彼の講演ビデオを見せ、とにかく無理矢理にでも動員させただけで、結果としては、狙い通り大成功となった。もう一人については「NTTの式場英氏」にお願いする事にした。彼はある事件で、その後失脚する運命になるが、当時はマスコミ他に引っ張りだこの、まさに「時の人」であり、今日で言う「IT社会の産みの親」とも言える人である。
ある人脈を使って、無理なスケジュールの中、OKを取れたまでは良かったが、その当日に問題が発生した。東京に未曾有の大雪が降り、電車が止まり、支社の玄関も入れないほど雪が積もってしまったのだ。女子社員には帰宅命令が出る始末である。中止にするか、遠い中来てくれる可能性のある顧客を優先するか、みんなで雪かきをしながら試案を重ねていた。講師の式場さんは、前日大阪出張の筈であるが連絡が取れない。交通状況を聞くと、新幹線も飛行機も止まっていた。やむなく中止の判断を下した矢先に、本人から連絡が入ってきた。「予定通りで良いですか」との確認の電話である。何のことはない、前日から大阪に行けず、東京で足止めされているとの事である。よし!とばかりに「決行」に変更するのだが、今度は客足が心配である。多分マスコミも取材に来るだろう。しかし案ずるより産むが易しであった。満員状態になったのは、やはり彼が「時の人」であったからであろう。それまでの人生で最も長い1日となった。
もう一つ失敗談がある。当時、金融商品の一つである「積み立て保険」を売らんがための企画流行りの頃、部下のU君が、正月パリ旅行の超割安企画があると持ち込んできた。確か5泊6日で10万を切っていたと記憶している。冬のパリがそんなに寒いなんて事は、企画を決めてから知った話である。「正月に10万以下のパリ旅行は絶対受ける」と積み立て保険とパリ旅行のセット販売に踏み切った。しかし残念ながら応募者はゼロ。旅行社はもちろん当社の代理店であり、最低のギャランティは必要である。やむなく自腹ながら、社員皆で行こうと相成った。とは言っても、社員は二人で全員。研修社員のO君と、自分の学生時代の何人かに声をかけたが応募者は一人、結局はたった4人での珍道中となったのだが、数々の旅行経験の中でも未だに、最も楽しかった思い出となっているので書いておきたい。
もちろん添乗員もいなければ、フランス語をしゃべれる者などいる筈もない。おまけに格安旅行の筈が、ついでにオランダによって「飾り窓」を見学して行こうなどと意見がまとまり、そのオプションだけで旅行代金は倍になってしまう始末。しかし、本当に忙しい中であっただけにこの冒険の旅は、金銭には代え難い素晴らしい旅行になった。(その後もこれを越えるほど楽しい旅は残念ながらまだ出会っていない。)
話は飛ぶが、その時のフランス旅行を心から楽しんだ筈の「親友N君」が、その後1ヶ月も経たないうちに亡くなってしまった。彼は、島根県の田舎町からわざわざ付き合ってくれた、仕事とは何のかかわりも無い、学生時代のかけがえのない仲間であった。田舎のデパートでオーバーコートを新調し、ネクタイ姿で颯爽と現れた彼を、都会人を気取った我々はジーパン姿で笑い飛ばしたりしたのだが、5分もしない間に初対面の皆と打ち解けていた。一番にオランダ行きを主張した彼が、行方不明になっているとの報を受けたのは、やはり彼と同郷の学生時代からの親友T君からであった。 T君は前述した学生時代に放送部長を争ったことのある男だが、彼の田舎に遊びに行った際、初対面の我々を心から歓待してくれたのがN君との出会いであり、大学は別であったがその後、大親友としての付き合いが始まっていた。先発隊として神戸にいた大学時代のもう一人の親友M君と、T君が捜索に出向いたが発見できず、一度帰神した後すぐに、彼が連れて行ってくれた事のある、あの真っ青な「故郷の海」で発見されたと連絡が入った。とにかく信じられないが、取るものもとりあえず東京から飛行機に飛び乗る形で現地まで駆けつけた。事故死か事件に巻き込まれた以外には考えられない。ただ彼の発見された海は、彼の庭同然のところである。自殺説もあったがそれだけは絶対にあり得ない。3週間前までパリで大騒ぎをしていたのである。金に困ってという見方もあったがこれもない。なぜなら、彼の保有株券を、相当額東京の我が家で、預かっていたのだから。もちろん、その後も借金取りは来ていない。
先日、久しぶりに3人で彼の墓参りが出来た。その時、偶然にも3人で話した彼の死因についての謎解きが浮かびついた。彼は大学時代空手部に所属していた。もし彼に、北朝鮮の拉致被害が迫っていたら、またはその現場に偶然居合わせたら2〜3人の敵なら十分に戦えたであろう。場所的にも年代的にも考えられなくはない話である。とにかくこれまでの誰の死よりも悲しくて、一晩中、変わり果てた彼の枕元でただ大声で泣くしかなった。あっという間に20年が過ぎ、万一の場合の親がわりを誓って預かっていた彼の生命保険の保険金も使う事なく満期を迎えた。3人の子供たちは未亡人の愛情だけで、大人として立派に成長している事を墓前に報告した。
港支社赴任後、まもなく長女が誕生した。三人目であり最後の出産である事から、女房は個室を借りて亭主の訪問を待っていたらしいが、遂に大阪の病院まで見舞いに行く余裕もなかった。(おそらく長男の時も次男の時も病院には行けなかったのかもしれない) きっと女房の両親が東京までつれて帰ってくれたのではないかと思うが、記憶にない。仕事が全てに優先し、乗りに乗っていた頃である。
子供との記憶は、正直なところ全くといって良いほど「思い出」がない。既に長男は小学校高学年になっていた筈だ。妻が私立の中学校へ入れたいと言い出してびっくりしたのがこの頃であったと思う。もちろん即座に否定したのだが、妻の言い分にも一理あった。「高校受験で、難しい思春期に苦労させるよりも、中学受験はゲーム感覚でこなすことができる。中高一貫の学校に行かせて、大学受験についてはその苦労を経験させるべきだ」との主張である。自らの思春期を振り返って見ても納得できる説明ではあったこともあり、「塾には行かせない」事を条件に了解した。息子の学力がどの辺にあるかも知らなかったが、今思えば、おそらく女房にはそれなりの勝算があったのだろう。
塾には行かせないが、四谷大塚という日曜テストを受けさせる作戦を取った。日曜日には二人で朝から教室に出掛けてしまうのだ。息子がテストを受けている間、女房は同じ問題の解説講義を受けるらしい。そして、そのテストを受ける資格を取ることこそ難しいという事は、ずっと後で理解する事になる。「そこでテストを受ける資格を取るための塾があり、そのテストで高得点を採る為の塾があり、高得点を採れば、月謝を免除してくれる塾がある」など、考えも及ばないシステムである。きっと説得を受けた時から、誰かの受け売りにはめられたのではないかと思うのだが、東京でしか出来ない仕組みであり、自らの小学校時代との対比の中でただ驚くのみであった。とにかく、その後我が家の受験戦争は10年戦争として、次々に3代に渡って発生していったが、仕事をやる側には好都合の役割分担となっていった。 (その後長男の受験は成功し、K中学に入学するのだが、一度この学校の運動会を見学に行った時、マジに息子の恵まれた環境に、親ながら嫉妬してしまうこととなった。学生たちが自主的に運営する伝統的行事として、中高生に最も必要な教育的意義を踏まえた完成品とも言える運動会であり、前述した自らの中学時代との環境の違いに愕然としてしまうとともに、もう一度中高をやり直せるものならやり直してみたいと正直考えてしまったことが強く印象に残る。)
この時代に出会った上司として、O取締役本部長を思い出す。当時から肝硬変であったが、「酒だけは死んでも止められない」が口癖であった。麻雀は天才的に強く、当時の手積みの麻雀では、ほとんど自分の山にくるとリーチ、一発でツモってしまう。決してレートを高くされる事もなく、麻雀をゲームとして楽しまれていた。貫禄のある体格に、大人の風格を漂わせながら、新宿の贔屓にしていたママのいる小粋な割烹料理屋へよく連れて行って頂いた。決して酔い潰れる姿は見せなかったし、威張ったり、褒めたりもしない人であった。
ある日、はっきりと記憶していないのだが、何か難しい頼みごとを持ち込んだ時の事、「河田君、それは俺には無理だから社長のところへ行こう」と言い出し、歩きながら「社長は同期だが、相性はあまり良くないから、君から直接お願いした方がいいよ」と言うのである。生まれて初めて社長室とやらに入れることになった瞬間でもあった。お願い事が叶ったのかどうか覚えていないが、この計らいに大感動したことはもちろんである。たまに小奇麗な銀座のクラブにも連れて行って頂いたのだが、Oさんはどこへ行ってもカラオケで歌う歌は一曲のみ、杉良太郎の「男の人生」である。
「泥をつかんで歩こうと、傷を背負って歩こうと 歩いた道に悔いはない。
俺の選んだ人生だ。生きてく道は 生きてく道は ああ〜 ひとつだけ〜」
未だに本物の歌を聴いた事もないのに、何故か3番まで歌えるようになっていた。「あんな役員になれたらいいなぁ」と漠然と考えていた頃だ。Oさんは、その後も酒を止められずに10年ほど前に亡くなられた。その年齢に近づいた最近、とても真似出来ない大きな人であった事を、改めて思い知らされる。その後、自分も代理店研修生を採用しては、安物のスナックでこの一曲を歌って聞かせたが、音痴を自認する一人として、この歌以外には決して歌わないようにしていた。
話は多少前後する事になるが、D損保入社と同時に野球部に所属した。入部時にどうせ草野球だろうとの勝手な解釈で(高校時代の入部時の乗りで)「出来ればピッチャーをやらせて下さい」と口走ってしまった。入ってみると準硬式野球で、結構レベルは高く、高校野球を止めて10年以上が経過していた自分には、草野球ではピッチャーで重宝されたくらいの実力しかない28歳の新人では太刀打ちできるレベルではなかった。当然チームは2部リーグから3部リーグに落ちていった。
その後2年後輩で、早実や桜美林の本ちゃん新人が入って来て、1部リーグまで昇格させていた頃、大阪からD大野球部出身のNさんが東京へ転勤して来られて、野球部は黄金時代を迎えた。このNさんには、野球を含めて、仕事についても随分教えられたことが多かった。ある事情で会社を退職される事になったので、自分は仕事を止められないので、せめて野球を封印すると訳の解らない事を言ったのを思い出す。 Nさんの送別会を「小金井カントリー」でセットしてくれたのが、後の社長、会長のSさんであった。本田の軽四輪に4人が乗って颯爽と門をくぐったところまではよかったが、流石に気後れしてキャディ専用駐車場に停めることにした。確か平日でもあり、スタートしたのは一組だけ。実は雪が降り出していた。3ホールでギブアップしたが、クラブハウスへの帰り道、プレーフィーを取られるかどうかまことにけちな心配をしていた。(ちなみに料金は免除してくれた。さすが名門) この時、 Sさんは課長待遇所長、もう一人が私より2つ年下の、全国最年少支社長のK君であった。みんな仕事をサボってのゴルフだった筈だ。 (後には皆ベンツ、センチュリーに乗る人も、当時はセコかった)
K君とはその後、港支社の後任として引継ぎすることになるのだが、引継ぎ時間はわずか2時間、六本木の喫茶店「アマンド」で「ここの地代は坪1億円、ここでは自動車整備工場の経営は不可能だよ」と説明して「了解」で全て終了した。そして1年後に、NさんのD大野球部後輩であるもう一人のKさん(現社長)が日本橋支店長として着任する事になる。既に退職していたNさんから「田舎者が行くからよろしく」との電話が入り、再び六本木のアマンドで2時間の引継ぎ「地代は1.5億」になっていた。東京営業最強と言われた生意気盛りの「3K」が、港、新宿、日本橋で勢揃い、増収(売り上げ)2桁は当たり前と言われた頃であった。(3Kは当時の部下達がつけた隠語で、「きつい、汚い、危険」という、その後の流行り言葉になる時代よりは、以前の命名であったが、この「あだ名」はその後も消えることがなく、「3Kの流行」は何故か自分にとって苦しみでもあり、隠れた退職理由の一つでもある。)ちなみにS氏は「3K」支店長が去った後の担当部長に就任されて、随分苦労をされた筈だが、見事その「3K越え」の後、社長への道を歩まれていった。
野球部に関してのエピソードをもう一つ。その後頼まれて、1年間監督を引き受けることになったのだが、もう一人のKさん(現社長)は、前述したようにD大野球部卒であり、高校野球部中退の出る幕ではない。当然彼に監督を引き受けてもらう事にした。監督最後の試合とばかりに、息子二人を始めてグランドへ連れて行った。残念ながら試合は7対1のボロ負けで、5回を終えたところで時間切れ終了を審判が宣言した。しかし、規定では時間はまだ5分残っており、もう1回だけやるのが正しいルールであった。突然、最後の試合で会ったこともあり、監督がこの判定を下した審判に切れた。止めに入った相手チームもろとももみあいとなってしまい、両軍乱れて乱闘寸前、ふと気がつくと息子がそれを見て、呆れている事に気が付いた。本当にめったに無い息子とのコミュニケーションの機会であったのだが、、、、、、、、。なぜ切れかかったのか、その真の理由をご理解頂ける人はどれくらいいるだろう。
仕事の方は順調で、顧客中心の営業展開支社として、会社から「港方式」と命名を受け、3年経った頃、新宿支店長を拝命する事となる。35歳であった。新宿支店は、D社における最も古い店でもあり、支店長に抜擢された時、「時代は変わったものだ」と呟かれた大先輩がいたくらいの老舗であった。古くからの代理店が多く、かつ高齢化が進んでおり、営業的には伸び悩みの店であった事から、これまでのような訳には行かない事だけは良く判っていた。当然女子社員の数も多く、まずは彼女たちのモラルアップから始めようと対話からチャレンジする事にした。
「仕事の中で最も嫌なことを解決したいので遠慮なく要望をあげてほしい。」と問いかけたところ、彼女たちの答えに唖然とした。「代理店会の旅行につき合わされる事だけは許して欲しい」と、これが彼女たちの最大の希望である。代理店会とは保険販売を専業とする事業家の親睦団体のことであり、通常はその支店の売り上げの半数近くをシェアしているのだから、その威圧力は極めて強い。旅行は年に2回あるらしいが、もちろん彼女たちはホステスではないから付いて行く義務は全くない。その旅行が間近に迫っていた事もあったのだろう。
即刻代理店会長と折衝した。正論による正面突破を試みたが、彼らの言い分は、「我々の旅行の最も大事な狙いは、日頃お世話になっている女子社員の慰労とコミュニケーションであるから、何が何でも連れて行く」との主張だ。慰労と言いながら、費用は本人達負担であるらしい。そして、順番に酌をして廻ることも伝統になっていると聞いて決心がかたまった。徹底抗戦も辞さずである。それが代理店会の総意であるならば会の解散も止む無し、の姿勢で臨んだのだからトラブルにならないはずが無い。
個々に事情を説明すれば、必ず理解が得られる筈だ。ホステスがいるなら現地調達して、会社でその費用を持つとの妥協案も示しながら、一人ずつ崩していく。「もしあなたの娘さんがその立場ならどう思うか」「行きたくない気持ちを考えてあげたことはあるか」「日頃本当に世話になっているという気持ちはあるのか」など、人によって手を変え、品を変えて説得を試みたが、総論的には合意出来ないまま、その日が来てしまった。
強行突破しかない。当然女子社員の参加はなく、バスの中から不穏な雰囲気が漂う。宴会の前の会議では支店長更迭論が出る。受けて、こちらからは代理店会解散論を出す。遂には「会社抜きの代理店会の位置づけに変える」という事で、支店長の顧問資格が剥奪される事になってしまった。ただ一方で、正論も動き出していた。女子社員の本音を聞いてみたという常識派が出て来てくれた時、立場は一気に好転していった。その段階で、支店長として非礼を詫びながら、「継続的に旅行後に検討してもらいたい」との事でその場を閉める事にした。着任後直ぐにしかやれない仕事として、実はほぼ予定通りのシナリオであった。この代理店会としての支社に対する貢献度は、既に大きくマイナスであるというデータが出ていたのだ。この改革なくして新宿の再生はなく、これを機会に徹底的に個々に代理店の理解を求めていく、そのためには、一度代理店会の解散も必要であると腹を固めて臨んでいたのだ。
旅行から帰るとすぐに保険販売キャンペーンを実施した。代理店会を一同にまとめたグラフを展示しつつ、新しい勢力の代理店グラフがどんどん抜きん出るように仕組んでいた。彼らは長い間会社と共存共栄を図ってきたのであり、会社なしでは現在も将来もありえない。もちろん、過去の功績を否定するものではないが、支店長を更迭出来るといった思い上がりの考え方は治すべきであると考えていた。代理店と会社の利害は当然、常に同一であり、一緒になって顧客へのサービスにベクトルを向けるべきである。代理店は、常に会社のサービスの矛先が代理店でなければならないと錯覚しているのだと考えたのだ。
この課題は、業界全てに未だに存在している筈だ。業界の抱えるコンプライアンスの問題は、全てこの問題の解決なくして始まらない。その後も20年にわたってこの問題と戦い続けた訳だが、結果は改革出来ないまま敗れ去った事になるのかもしれない。
「曇りガラスの向こうは 風の街 問わず語りの 言葉がせつないね・・・・・・・」
ルビーの指輪が大ヒットしたしていた。新宿支店長として落ち着きの出た頃、社内旅行に出かけたら、女子社員たちから例のお礼にと徹夜でこの歌を伝授されたのだった。不器用で酒も飲めずに、歌も歌えない支店長に同情して、みんなで必死に指導してくれたのだが、この歌は難し過ぎた。希望は谷村新司の「昴」であったのに、何故あんなに難しい選曲になったのか未だに良くわからないでいるのだが、「ルビーの指輪」を聴く度に、あの頃の事を思い出す。
時はバブル期真っ只中、新宿支店は高層テナントビルに建替えが決定した。旧淀橋浄水池跡地が「坪1億円」と言われるようになっていたのに驚きもしなかったのが、今考えると不思議でもある。時の支店長として、「ビルが出来上がったら、保険会社を解散して不動産会社になった方が将来利益は高くなる」などと冗談を飛ばしはしていたが、バブルの真ん中にあることには全く、気付かなかった。営業的には不動産情報さえ掴めば、銀行、ゼネコン他、あらゆる企業が参入可能である事から、地道な営業の積み重ねが頓挫していった。隣に分家して行った住宅産業対応専門の課が、みるみる業績を伸ばしていく。積み立て、金融商品が飛ぶように売れ、遂には保険領収証の桁不足が発生する始末である。
代理店手数料も桁違いに大きくなる。異常に違いないのだが、近隣の生保業界ではもっとひどいことも相まって、金融機関が総じて神経麻痺していくのであった。果てはコミッションで動く、信託銀行マンの給与のための節税対策商品まで出る始末で、大きく金融業界が傷ついていった。支店応接間で、不動産直取引を斡旋した事がある。数十億の取引であるから、本来の仲介手数料は計算上では億単位になるが、なんら臆することなく、ひたすら保険売り上げの嵩上げに邁進していた。代理店に対しても、「保険屋は保険手数料のみが命である」ことを徹底していたので、幸か不幸か不動産バブルの恩恵に直接浴した者はいなかったと思う。
「広報室 沈黙す」で、作家・高杉良と出会う。この小説が、同業者について書かれていた事がスタートであったと思うが「小説日本銀行」から「金融腐食列島」迄、彼の書く経済小説のリアリティに共感し、次々と出る本は片っ端から読んでいく事になりだしていた。
本当の現場との接点を持てた時代は、この新宿支店で終わる。保険会社に再就職して10年が経過していた。振り返れば、中途採用の不良社員が、たった10年程度のキャリアと3度の転勤経験で、新宿支店長まで上り詰めていた事は奇跡に近いし、事実、当時の労働組合から会社への質問事項にもなったりした。バブル時代の成せる業であったのかもしれないが、説を曲げずに、直球勝負でひたすら走り続けた10年であり、目標としたプロサラリーマンとして、是々非々を通し切れた後悔の無い10年でもあった。
その後、埼玉で営業部長を3年、初めての本部経験で販売チャネル関連部長を2年、初めての単身赴任で、名古屋において営業部長を5年と、計10年の経営幹部(部長職)を経験する事になったが、外部との接点で記憶する事は、それまでと違って極めて少なくなっている事に気付く。社内調整を中心に、守りに入った時代であったのかもしれない。この間にバブルは崩壊し、サラリーマンとしても混迷の時代に入っていく。気が付くと「あの素晴らしい会社」のモラルが消えている状況に、強い焦りを感じながらも、日々の目の前の問題解決に奔走するのみであった。
営業部門では、埼玉、名古屋とも超高シェア地域であった事から、そのシェアの維持と企業モラルの回復を併走させる難しさに疲れ、本社では、その官僚機構の壁と会社効率化に精一杯の努力をしていたと思うが、既に自分の活力の源泉は大きく変化しつつ、幹部社員として、常に胸に辞表を意識しながらの内なる戦いに終始していた頃である。中でも、新米部長で赴任した埼玉での3年間は、それまでのサラリーマン時代とはモラル面で大きく違う苦悩の時代となった。すなわち自分の顔が顧客に向かわず、ひたすら「自らと部下と代理店」の保身に動かざるを得なかったと反省するのみである。完全に目線が内向きの戦いとなっていたかもしれない。会社のスタンスが明らかに変わっていた。バブル崩壊の中で、依然として売り上げ至上主義を経営の中心に掲げれば、組織は疲弊していく。そして、自然と構成されていった「河田村と仲良しクラブ」が業務を進めつつも、それまでのようなさしたる成果も挙げられなかった。
本部時代の失敗の数々から、2つの事件が思い出される。一つは本部着任早々の失敗であった。初めて役員会に提案する議案の方針を固め、担当役員の了解も取り付け、部下数人とで2日間の徹夜の末、議案を完成させた。中身は、営業時代の施策の中心で使用していた「代理店研修制度の改定」であった。この制度改定は営業現場には厳しいものとなるが、そのまま放置すると極めて非効率極まりない欠陥があったのだ。経営会議当日、部下のS君から、日頃、飲みつけない強力ドリンク剤で勢いをつけてもらい、完成議案を引っ提げて最後の副社長調整に向かった。担当役員も同行であったのだが、何故かその議案の上程を副社長にOKしてもらえない。部下の苦労が無駄になると思った瞬間、飲んだドリンク剤が効いてきた。気が付くと悪い癖が口をついて出てしまっていた。「この結果では部長は不要ということです。即解任してください。」と言い残したまま、一人で席を蹴って出て行ってしまっていた。確か議案否認の結果を部下の皆に謝った後、まだ外は明るいのにもかかわらず、飲みに出てしまったように記憶する。その後、その議案はなぜかしばらくして、原案通りに役員会で成立させていたのだが、どうして通したのかその記憶もない。要は会社にとっては必要な決定でも、現場の批判が大きいのに、耐えられる理論武装が出来ていなかった事を指摘されたのであろう。その後、その議案のおかげで営業出身にも関わらず、営業推進にブレーキをかける裏切り部長と厳しい批判を浴びる事となった。
もう一つの失敗は意外なところで発生した。当時の社長から「専業代理店の活性化策を提出しろ」とのリクエストに、正直具体案もなく、気乗りがしないいまま、本番前日になってしまった。日頃から「困った時には遊びに来い」と声をかけていただいていた尊敬するS部長(後の社長、会長)のところに、気の進まない中途半端な議案をもって相談に行った。しばらくその議案を見ていたS部長は「河田君、食事をしてホテルへでも行こう」と誘われた。当然ホテルでゆっくり指導を受けられると思い、喜んでついていったら、食事を済ましてすぐに「じゃーな。明日の朝、6時にロビーで会おう」と言って一人で部屋に入ってしまわれた。本番を明日に控えて、当然、眠れぬ夜をすごしたのだが、おかげで朝まで再度仕方なく見直さざるを得なくなった議案に、朝食を摂りながら多少の「赤」を入れてもらったのだ。当日、その議案は魔法にかかったようにすんなり通過、可決した。問題はその後である。席に戻るとS部長の議案で会議が大紛糾して、まもなくそちらが「没」になってしまったのだ。お詫びのしようもなかったのだが、きっとあの時、Sさんは自分の議案がメインであり、こちらの議案がダミー扱い程度の位置付けであったのを知っていたに違いないと、今頃にして、答えに気付いても仕方が無い。
平成6年、阪神淡路大震災が起こった時、既に名古屋で単身赴任をスタートしていた。震災のその日は、偶然にも3連休を利用して、全国の昔の職場仲間の12名での「グアムゴルフツアー」から帰り、成田に着いた早朝の出来事であった。空港にあったテレビの前が騒がしい。「神戸で大地震があり相当の被害が出ているらしい。ツアー参加者の中には神戸出身の仲間もいるし、多少心配だな。」それくらいの思いでそれぞれが、三々五々、勤務地に戻ったのだが、東京の自宅に着いて折り返し名古屋に向かうつもりが、テレビに釘付けになってしまった。既に神戸にも大阪にも電話は繋がらない。その規模は未曾有のものであり、出身地である懐かしい神戸の見覚えのある町が燃えている光景は、筆舌に尽くし難い恐怖感が走るとともに、多くの親戚、知人の消息が気になった。やむなく夕刻には名古屋にもどり、翌日早朝から、会社の救援体制を確認すると共に、二人の部下に車と食料を手配させ、とにかく神戸に走った。大阪近くから道路は大渋滞、16時間もかかって神戸支店に到着。既に体制は万全との事であったので、とりあえず積み込んできた差し入れの食料を下ろして、出身地の長田に向かった。幸いにも、知人に死亡者はない事がほぼ確認できて、胸を撫でおろしはしたが、状況からして「命さえあれば、財産などは致し方なし」という生々しい傷跡は忘れ得ない光景であった。長年住み慣れた長屋群と我が家は、瓦礫の山となっていた事は言うまでもない。
名古屋での5年間の単身生活は、貴重な充電期間としての時代でもある。考えれば洗濯、掃除、食事といった基本的生活において一人暮らしの全てが初体験であり、何とか洗濯機と掃除機と電子レンジが使えるようにはなったが、炊飯器だけはマスター出来ないまま終わった。この間に長男は大学に入学し、そして卒業してしまっていたし、次男も大学、長女は高校と、全ての子育ての基本は終了済みで、単身生活の間に、既に皆、大人として自立していた。子供との会話の記憶も悩みの相談も、全く受ける事もなかった事になんとも言えぬ虚しさと、振り返ってみてある種、驚きさえ覚える。
東京からの距離感も程よく、優先施策をチョイスしながらほどほどの成果が挙げられる。ただ、新宿、埼玉で経験したバブル後遺症や、長年放置されていた名古屋独特のコンプライアンス問題に苦悩したことも事実であったが、素晴らしい部下に恵まれ、一見、平和なサラリーマン生活を謳歌していた。単身者が多く、食事は麻雀屋となると、当然ながら手に「麻雀ダコ」が出来てしまう。時代の流れは風雲急を遂げていた。この間に、革命時の天才的経営者「Sさん」が社長に就任され、大きな変革路線を打ち出しつつあった。「この人こそ自分の恋焦がれた理想の経営者である」と確信していたその人である。既に前述した、入社時の研修講師としてお会いして以来、生意気にも、事ある毎に経営参画へのチャレンジをお願いし、断られていた人でもある。「いい会社に戻れる」「いい仕事が出来るかもしれない」名古屋での仕事も、休息を挟みつつも何とかこなせたとの思いと、何よりも名古屋という土地柄との出会いに感謝したかった。いよいよ名古屋を去る時が近づいていた。
サラリーマンとしての20年を無難にこなし「理事」という肩書きで東京へ帰れる事になった。業界事情が大きく変わる予兆の感じられる頃であった。「どうやら我が損保業界にも、大再編が起こるかもしれない。そして、その仕掛け役として、我社が先陣を切るかも知れない。」久々の東京勤務のポストは東京営業副本部長という、中途半端な意味不明のポストであった。要は、なんらかの役割のための待機ポストのようだ。やがてその意味は天の声として聞こえてきたのだが、他言無用の合併準備要員であり、何をして「そのとき」を待てば良いものか全くわからない中でも、東京営業の組織見直しと効率化、それに伴う営業要員の再配置などを極めて、拙速に展開していった。大きなハレーションが起こることになるが、お構いなしに進めた。その後に来るであろう大混乱の準備と考えれば、多少の亀裂は止むなしと判断していたが、おそらく全体のコンセンサスの全く取れない中では、すべてに強引すぎた感は否めない。それでも実験的意味合いは大きかったと自己満足している。じっとしている時であったかもしれない。(急改革の真の意図は、誰にも理解してもらえなかった)
半年後に、C損保とD損保の合併が公式に発表になるわけだが、それから今日に至る経緯と回想については、まだ書ける時間的段階には至らないが、合併の困難さは自分にとっては想像をはるかに超えたものであった。しかし、この体験が出来たことは本当に幸運であったとも思っている。合併についての正当な評価には10年以上の時間が必要である。いつか(10年後?)この体験を踏まえて、考え方について纏めて小説か何かにして出版してみたいと思うほど貴重な体験であった。個人的な見解で言うならば、この合併こそが大成功といえるものであり、その後の業界大再編の呼び水となった。そして金融業界で唯一、業界独自の金融再編を成し遂げることができたと思っている。時のD社のS社長は個社的にも業界的にも素晴らしい大英断を下されたと、今更ながら敬服すると共に、その側でご迷惑を掛けながらもお手伝いをさせて頂けた事は、自分の人生の中での勲章にも感じている。ただ、この合併劇の中で一つだけ書いておかなければ、この手記全体の意味を失うかもしれない出来事がある。同じ保険業界とはいえ、長い両社の歴史の違いについてのエピソードに触れておきたい。合併時の両社幹部に対するD社のS社長挨拶の中に「C社は貴族的でD社は野武士(夜盗)的な気質の違いがある」と、ユーモアをこめて話された事があった。(カッコ内は勝手に想像していたのかもしれない)たとえば合併委員会の最初の会合で、両社の社長を迎える為に幹部社員が待っていた際、その入場とともにC社社員が全員急に立ち上がったにもかかわらず、D社社員は座ったままその起立の対応に唖然としていたことや、委員会に突然D社社長がふらりと現れた際、予告無くあらわれたことで、驚くC社社員に「これがD社の社長です。遊びに見えたようなので一応ご紹介しておきます」と答えてしまうD社気質の融合は、笑い話では済まされないほど、後々苦労を伴う事となった。
この合併劇の中での自分の役割は、「事務システムの統合」という最大の難事業である。そのためにはまず、個社の意思統一から始めなくては不可能であり、そのための「腕力」だけが自分に課せられた使命であって、それ以外には営業部門しか経験のない自分の出番がある筈もない。当然の事ながら、合併前から、様々な問題で難航を極めたのが事務システム統合であったが、委員会が発足して半年ほど後に、究極の山場を羽田空港で迎えることとなった。 S社長が、国内出張を終えて、引き続き海外出張へ出かけられるスケジュールであったと記憶している。事務システム統合方針の「大変更の決断」を頂くために、空港まで社長の後を追いかけた。この日、この時しかなかったとの想いは今でも変わらない。もちろん「無礼打ち」を覚悟の直訴である。「決断いただかない限り海外出張を実力で阻止します。帰られてからでは手遅れです。経営トップの決断と了解がない限り変更の決定が出来ず、時間的限界から合併が壊れる事にもなりかねません。但し、この判断は個社としての独自判断です。」と懇請した。社長は本気で、極めて立腹され、一時は「お手打ち」を覚悟したが、そのための手続きの違いを厳しく指摘されはしたが、基本的に了承を得たと理解した。指摘の中身は「僕のところに来るべき役割は君ではない筈だ。君が強行突破するべき役割は、相手側のトップではないのか」という風に勝手解釈した。
そして当然その後、単身相手会社に乗り込んでいった。しかし「この結論」と「勝手解釈」なくして動ける立場ではなかったし、今もこの行動なくして合併は成立しなかったと自己満足している。方針変更が決定し、自らを含めて、それまでの双方の実務責任者の責任を明確にした後、改めて新会社の事務システム方針が動いていった。当面の状況をより混乱させる事になるが、致し方ない。サラリーマンとして始めて本当の恐怖を感じる瞬間であった。 S社長がその時出張される重要な意味合いも当然知っていただけに、それを盾にすることで苦渋の選択を即断して頂けたと今も思っている。(その後の当然発生する事務、システムの混乱を収拾に漕ぎ付けてくれたのが現社長K氏であった。)思えば合併前に役員に推挙され、合併後も主流の中にいながらも、なぜか役回りは常に反主流を演じてきた。誰かに指示された訳でもなく自分で勝手に決めた役回りであったが、厳しく辛い日々でもあった。無事合併を終え、晴れて常務執行役員として神奈川営業本部長を拝命し、その後3年間営業現場に戻らせてもらったのだが、すでに体が営業現場の一執行役員向きではなく、経営者の一員としての「取締役」であるとの想いが出来上がってしまっていた。これこそ大いなる勘違いである。
2001年(平成12年)神奈川に着任して6ヶ月目であった。あの忌まわしいニューヨークでのテロ事件が勃発した。もちろん事故の悲惨さは筆舌に尽くせないものがあるのだが、実はD社側の社員のうち何人かは全く違う意味での恐怖を自らの内心に感じていた筈である。「ひょっとして事故の保険金支払いを、新会社が大きく被る可能性が高い。もし心配した再保険問題に該当するとすれば、大変な事にならないか。」予感は的中した。緊急部支店長会議が招集され、事態の説明があったが、全貌についてはとても短時間で理解出来るものではなかった。金曜日に説明を受けたあと、指示はなかったが、日曜日に神奈川の全社員に緊急招集をかけた。要は「会社には十分な準備金があること。明日以降出るかもしれない信用不安説などは完全否定せよ」との指令を本部長として独断で発した。実際には自らの不安を払拭出来ている訳ではない中での、強き一点張りの指示と説明を行い、月曜日午後に代理店にもお集まりいただき直接説明したいと集まった社員に熱く説いた。その時の社員、代理店への説明は「鬼気迫るものがあった」と後でよく言われたのは、おそらく多少とも前後の経緯を知っていた事から、会社存亡の危機意識が強かったのだろう。(実際にTS社が倒れ、NS社が救済会社とされた)なれない知識にもかかわらず、株の暴落予測にも買い支える事が、個人的にも(会社にとっても)結果メリットとなる(実際今の値段は当時の3倍以上)など理屈を超えて訴えたのだった。
役員を拝命してからの7年間は、会社経営という視点以外には、仕事としての価値観を見出せないでいた。もちろん自らの立場は執行役員であり、常に現場責任者でしかないことを言い聞かせながらも、惚れた会社の「あの頃」を夢見て、それを実現してくれるトップに期待して、自分は勝手にその黒子役を決め込んでいたのだ。
この頃偶然、歌手「谷村新司」との出会いの機会に恵まれた。もちろん「チャンピオン」「昴」「いい日旅立ち」など、その都度新曲が出るたびに彼のファンではあったが、前述したように、実は団塊同世代の「人間、谷村新司」に大きな興味があったのだ。谷村氏が、エンタメ系を歩んできた我が実兄と「日中友好30周年記念音楽祭」を北京で開催すると聞いて、プライベートで同行させてもらった。このイベントは訳ありで、あの「トヨタ」がスポンサーとして中国人民40000人を北京工人体育館へ招待する大イベントである。日本からは「谷村さん」をはじめ「浜崎あゆみ」「ガクト」らが出演する。「昴」はむしろ、中国が本場の曲であるとも向こうでは理解されており、当日は無料招待にも関わらず、多くの「ダフ屋」が出るほどの騒ぎであった。ガードマンは紅衛兵ならぬ人民解放軍が入り、イベントは大成功。打ち上げパーティーで谷村さんを紹介され、その後万里の長城から上海まですばらしい解説つきでご案内を頂いた。日本を代表する偉大なエンタテイナーは、昔ラジオのDJで聞いていた頃となんら変わらない想像通りの気さくな人柄であった。これまでの生き様、ものの考え方、今後の活動スタンスなどを聞き、大きな共感をおぼえると共に、自らの人生を見つめ直す大きな転機にもなった。彼こそが団塊世代を代表するエンタテイナーであり、恥ずかしくも自分の独白を書く事のきっかけにもなる出会いの旅となった。新たに出る彼のアルバム「風の暦」は「アカシヤの雨が止む時」を聴いていた昔の二人の一致した思い出と共に、この「独り言」のテーマ曲を飾るにふさわしい楽曲である。彼は今、中国音楽学院の教授でもあり、自分もその後、再三に渡り中国を訪れる事になる。(そして団塊ジュニアである彼のご子息にも本ブログの構成のお手伝いをお願いしている。)
全力疾走の30年間に疲労困ぱいの状況となっていた。時あたかも、同期で盟友として共に走り続けてきたK社長の就任が決まった。自分が2〜3年前から勝手に、思い描いたシナリオ通りである。執行役員として3年間の営業本部長としての営業成績は、十分に責任を取るべき不振な状況にあった。2005年(平成5年)4月にK新社長が本決定され、ほぼ自分の退任の覚悟は決まっていた。あくまでも取締役ではないことから、株主総会終了後の引責辞任が最善と独断で仮置きし、自問自答してみる3ヶ月を過ごす事にした。7月1日、退路を完全に断つために、営業本部長の辞任届けを時の営業推進本部長に提出した後、会長、社長に退職意思を告げる事とした。残念ながら結果として、3ヶ月の混乱を生ぜしめたばかりではなく、噂が噂を呼び、大きな混乱の原因を作ってしまった。(もちろん家族には6月30日までに全員の了解を取っていた。意外にあっさりしていたのは、言い出すと聞かないと知っていたのか、疲れた状態を見透かされていたのか?)「敵前逃亡」の誹りは予期していなかった。むしろ常に敵の最前線で戦っていて、振り返るとむしろ味方が敵と葉戦わずして、銃をこちらに向けているような恐怖感におののいていた。益々の改革を期待してくれていた多くの部下から、そう言われるのは致し方ないのだが、本当に多くの社員が本気で引き留め、怒り、説得してくれた。唯、その期待に答えられるだけの余力も能力もない事が、自分には十分過ぎるほど理解出来ていた。このタイミングを失うとポストにしがみつくだけの、自らがもっとも忌み嫌う老害を引き起こすことになるだろう。今振り返っても、最善の時期の退職であったと確信している。良く聞かれる退職理由は「団塊世代のもつ強さと弱さ」または誰かに言われた「男のロマン」かもしれない。自分では「悲恋の片想い」による自己都合退職としておきたい。正直に言って捨ててしまった金銭的価値の大きさは退職後に始めて気づくのだった。そんな自分だから辞められたのだろう。とにかく恥ずかしながら、3度目の中途退職となってしまった。
還暦まで3年(実質2年半)を残しての最出発は、意識の中にあったが、事実はやるべきことを何ら決めてはいなかった。決めていたのは「住宅ローンは残っているが返済せずに退職金を元手に何かを始めよう」という、漠然とした考えでだけで、とにかく1ヶ月間リハビリを兼ねて海外旅行でもしながら思案するつもりだった。(但し、実際には退職金の額すら調べてはいなかった。)
不思議なもので、退職が正式に承認されてすぐの時期に、60年もの歴史のある中小企業から「多少の資金といい経営者がいれば会社を譲りたい」との話が知人を通じて、舞い込んできた。その会社が飲食業の部類であった事から、その道で経験の長い甥っ子に検討を委ねておいたら、1日で返事が返ってきた。財務諸表をチェックしてみたが、とても手がつけられる内容ではないから辞退した方がいいとの事である。さもあらん、そんなにタイミング良くいい企業が転がり込んでくるワケもないと思いつつ、現場調査はしたのかと早速「現場主義の方針」を指示したところ、調査を終えた後、あんなに否定的であった甥っ子の返事が「是非ともやってみたい」に変わってしまった。但し、やる為には明日(10月1日)中に500万の現金が必要だという。
答えが返って来たのが9月30日、すなわち退職日その日であった。慌てて人事部にみっともないが、電話をして退職金の振込日を確認。「間違いなく10月1日、ついでに着金時間は午前中」と教えてもらう始末で、それからは転がるように無謀な賭けがスタートしてしまった。手形の決済手続きを済ませて、晴れて海外旅行へ出発したのだが、1ヶ月のリハビリ旅行の夢は破れ、行き先も「割安グアム」に格下げとなってしまった。それでも1週間、ゴルフ三昧の中で、今後の事業プランを作る事は出来た。格好よく「流行の、企業再生ビジネスをメイン業務とする」が、但し小規模零細企業専門とする。その理由として、大手から順次救われる格好になっている再生スキムは、中小でも可能な筈、その法的根拠を押さえて、関係当局、金融機関と交渉すれば確実に債務は削減でき、それにリストラを加えれば短期に財務改善出来る。自分の存在価値もそこにあるとの仮説を立てた。
最初に資金投入してしまった企業が実験台である。社是は「外へ、前へ、速く」をD損保から継承させてもらおう。この社是は、本当に前職時代の仕事のメルクマールとして常に頭においていた大好きな言葉でもあり、今日の日本経済で必要な要素を完結、明瞭に示してくれていると思う。前職のS会長に、餞代わりに拝借したいと話をつけた。そして第一号の再生事業は全てこの社是の元で動き出した。再生支援決定1週間後には本社移転を行い、甥っ子を専務として全権限を集中移管してもらうが、1年間は現体制の会長、社長の残留をお願いした。
豪華グアム旅行から戻ってすぐ、「人間ドッグ」の予約をした。単純に再スタートを切るためには、胃と腸の完全チェックが必要だと考えたためだが、実はかつて無い、大きな不安感に面食らってしまった。なぜ退職前に保険で済ませておかなかったのか。万一、異常が発見されたら、どう対処すればいいのか。情けなくも真実、検査へ行く事が怖くなってしまった。出した結論は、退職前であっても異常があったからと言って「やはり残ります」とは口が裂けても言えないのだから、同じ事と言い聞かせるのみであった。幸いにも異常は出なかったが、あれから既に2年が経過している。
そう言えば、起業後しばらくして、小学校の集団赤痢事件以来初めて入院したのだった。喉の腫れがひどくなり、やがて水すら通らなくなったため、仕方なく病院に行ってみたら、「よくもこんなになるまで我慢していたね」などと褒められ、急遽、緊急入院となってしまう。まさか「喉如き」で一時帰宅もさせないとはどういう事かと怒りを覚えつつ、「喉頭ガンでは?」との心配が頭をよぎった。よく理解できないまま、その日のうちに手術が終わり、麻酔が覚めたらすっかり良くなっていた。医者に原因を聞いたら、はっきりと言わないので「タバコの吸いすぎの可能性」について、こちらから問いただすと、我が意を得たりと医者は大きく頷いた。 1週間の入院であったが、さすがに病院での喫煙は遠慮したが、手術の翌日からは仕事にかこつけて、隣のホテルまで脱走してヘビースモーカーに戻っていた。退院時には命拾いと思って、これを機会にタバコを止めるよう言われたのだが、このアドバイスは、時期既に遅しであった。
かくして起業方針が決まった頃、退職した会社の元部下たちから有る強い要請が入ってきた。それは「はげます会、勝手連」を立ち上げるという嬉しくも面倒なものであった。ただ元部下達にとって、送別会をしなかったという事では、自分たちの社内での面子が立たないとの言い草に感激した。やむなく会社は絡まない事、会費を取らない事、送別品を送らない事、役員には案内をしない事、設立する新会社の起業発進会と共催とする事などの様々な注文をつけてお願いする事となった。幹事諸君の努力によって、前職の同僚、部下を中心に150名もの多くの方々にご参集頂いた。「敵前逃亡者」であるかも知れない人間の激励会に出る事は、サラリーマンとして勇気がいるものだと解っているだけに、参加人数に不安もあったのだが、心底有り難く思い、感動した。そして何より嬉しかったのが、土曜日にも関わらず役員会を開催していた筈のS会長とK社長がネクタイを外して、個人として飛び入りで出席してくれたことであった。これによって、退職理由も理解出来ていないまま参加してくれていた「戦友」達が、どんなにほっとしてくれたか計り知れない。
「励ます会」を終えて半年も経たない頃、元気に出席してくれていた団塊同期で戦友のS君が「肝臓がん」で亡くなってしまった。彼の最後の職場となった(社)長寿社会文化協会とは、実は強い接点がある。約20年前の新宿支店長時代にこの団体の設立に大きな関心を持ち、会社にスポンサーとなってもらうべく推薦をしたことがその経緯である。それはいつか来る我々「団塊世代のリタイアー時代」を予見して、保険会社として支援しておくべき団体との認識を強くしていたからだ。特にアメリカではこの種の団体(AARP)が保険会社の後援によって、大きな成果を挙げていることを偶然にも学んでいたこともあり、当時の社長に直訴して了解を得たのであった。その後20年に渡って、D損保は日本で唯一の社団法人のシニア団体としての活動を支援し続けててきたのだが、S君はそこの事務局長としてD損保から出向し、様々な苦労を一手に背負ってがんばっていた。彼は大好きなゴルフも絶ち、この団体の自立の目途を立て、この年末でその役割を終える予定であった。あの日、その報告を聞かせてもらいながら、又ゆっくりとみんなでゴルフを楽しもうと話していたのに、全ての業務を終了させ、我慢を重ねていた頭痛の検査に行った際、「末期がん」の発見という事態を迎えてしまったのだ。宣告を受けても、前向きに治療に専念していたが、やはり手遅れであった。彼の命と引き換えになったともいえる団体はこれからが本番である。そんな縁もあり、その後、この社団の理事を引き受けることになり、本格的に少子高齢化社会でのボランティア活動についても考える機会を得たこともこの原稿執筆に繋がっている。
一方、本業のビジネスモデルは、少しづつではあるが成功しつつある。資本金は退職金を予定通り全額当てたが、本当の資本は、あの日出席してくれた多くの仲間と、これまで共に戦ってきた「団塊世代という時代」背景であるとの想いを強くしている。来年の還暦を迎える日までにこのビジネス基盤を定着させ、来るべき「07年問題」を大きく飛躍させる事で、堺屋太一の命名した「団塊世代」を卒業し、自ら命名した「プレミアムエイジ」として、真に大人の新たな文化と経済発展に貢献できればと目論んでいるのである。
団塊世代といわれて走り抜けてきた60年を一個人としての記憶の中で、出来る限り事実に基づいて長々と書いてきたが、既に錯覚している事も多いかもしれない。最後にもう一度、書き綴った個人的大事件を振り返ってその原因と影響を総括してみたい。
まずは小学校での世界地図告白事件、これが自分にとっては自らの無垢の姿の象徴である。原因は今で言う「格差社会」から来ている。幼稚園へ行ける環境といけない環境があり、それが地域間格差を生み、いじめ問題を発生させる原因のひとつになっている。当時には当たり前の如く発生していたにも関わらず、なんら社会問題化せず、いじめる側もいじめられる側も自然の中で治癒するしかなかったのである。間違いなくいじめられる側からいじめる側に変わった小学校時代の自分を振り返ってみて、一体どちら側が自分の本質かと言われれば前者であると言っても現状を知る人たちからは信用してもらえないだろう。しかし、第二の事件とも言える暴力教室での野球少年であった中学時代は、ただ野球をやりたい為だけに恐怖心に耐え、協調する事を学びつつも、間違いなくいじめっ子の側にはいなかったし、要領よく暴力を抑える側にいる方法を学んだのである。
第三の事件としては高校時代の就学旅行での停学事件となるが、これは先手必勝と勘違いした小心者の自己防衛意識から来ている。おそらくは、やられる前にやるという事は万一の備えとして中学時代に培われていた防衛本能であったが、その後の冷静さは、事の重大性と相手を傷つけた事への恐怖感であったし、その後、持ち続けていた多くの人の楽しい筈の思い出を血で染めてしまったという罪悪感はその後のある種の「平和主義」に通ずる。この事件なくして、現状の自分は存在していないし、今の自分の存在が「成功」であると仮定するならば、この事件の反省の上に成り立っていると言っても過言ではない。
四つ目の事件は大学封鎖のあの日の事件になる。いわゆる「団塊世代」とは、もちろん自ら作り出したものではなく、言わば「戦争後遺症」として生み出されたものであり、「戦争を知らない子供たち」は少なくとも「戦争の悲惨さ」を知る最後の生き証人でもある。そのリアリティの中で、大人達から聞かされた生々しい苦労話だけではなく、まだ食べるため、生きるための戦争は続いていた。幼い頃、この目で見た「貧困と差別」の実態体験から当然戦争反対の平和主義思想が強く、極度に軍国主義への恐怖感が強いという意味では戦争体験者よりも熱い想いを持っている。そんな中、ある意味「憧れのアメリカ」によるベトナム戦争が始まり、泥沼化する中で戦争反対を唱えるデモの隊列に加わる経験をする。そこで全く無抵抗のデモ隊の足元をめがけて、殴る蹴るの暴行を加える機動隊と権力体制に出会う事になるのが、当時の学生運動の原点であった。大学へは行かなかった若い機動隊員からすれば、親のすねかじりの学生への恨みがそこに現れて当然であった。
この「独り言」を、既にWebサイト「プレミアムエイジ」で「連載」として発表してしまっているのだが、本当はWebサイトの役割やブログの意味すら、しっかりと理解出来ていない事も白状しておこう。団塊世代は最後のアナログ世代でもあり、本当はパソコン(デジタル)に最も弱い人種である筈で、この連載が完全に無視されるのか、その他世代を含めて、徹底した批判に晒されるのか、いずれにせよ重大な覚悟が必要である。
小学校のソロバン授業で、「やがてソロバンは電子計算機に代わり、不要になる」とうそぶいていた覚えがある。その後も、コンピューターとの縁については、逃げても逃げても追いかけられて困り果てたのだが、今でも最も苦手で嫌いな部類の道具でしかない。しかし「プレミアムエイジ」にとっては、このパソコンという「お化けの世界」と付き合わざるを得ないと観念するべきだと提案したい。(もてあますほどの時間を情報空間の中で消化する資料の武器であるだろう。)
但し、アナログとデジタルを繋ぐ媒体が必要だ。このブログの反響を見ながら、情報誌「プレミアムエイジ」の創刊を企画している。その昔「少年サンデー」、「少年マガジン」を生み、「平凡」を「平凡パンチ」に変えたのは団塊世代であり、それが現在の「マガジンハウス」であると聞いた。いわゆるシニア向け情報誌が数多く出版される風潮も承知しているが、本章(終わりに)がブログに掲載される頃には、「プレミアムエイジのための」情報誌発刊が決定されている事を期待して、長い「独り言」に終止符を打つ事とする。